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<テーマ029>間隔~事例

<テーマ29> 間隔~事例 

 

(29-1)間隔と方法論 

(29-2)社会的関係範囲内の間隔 

(29-3)「治療」は生活の一部にすること 

(29-4)毎日受けたいと希望したクライアントの例 

 

 

(29―1)間隔と方法論 

 前項<テーマ28>より、カウンセリングの間隔の問題について述べています。前項では、カウンセリングとカウンセリングの間隔が空きすぎることがどのように望ましくないのかという点を中心に記述してきました。本項では、その逆に、間隔が狭すぎる、密すぎるということも同じように望ましくないということを考えていこうと思います。 

 カウンセリングや心理療法には間隔があるものです。どの立場の方法論であれ、一旦終了が来て、次回につなげるという方針を採っているのが常です。その間隔はその方法論と関連していることもあり、意味があることなのです。 

 精神分析療法を例にしましょう。標準的な(古典的な)精神分析は週に五日、毎日、面接をします。精神分析の方法とは自由連想と呼ばれるものです。これはクライアントがカウチに横になり、心に思い浮かぶことは何でも取捨選択することなく、そのまま言葉にすることが求められます。その時、臨床家はクライアントの枕元に位置しており、すなわちクライアントの視界に入らない所に留まり、クライアントの連想を傾聴していき、必要に応じて解釈を投与するのです。 

 クライアントはカウチに横たわり、頭上の方向に臨床家がいるわけですが、この両者の位置関係はちょうど乳児期の親子の位置関係に等しいものです。そのため、クライアントに退行が生じることが見られるのです。退行というのは、精神的に以前の段階へ逆戻りするということで、簡単に言えば精神的に子供がえりするわけです。こうしてクライアントは臨床家との関係において親子関係を象徴的に体験し直すことになるのです。 

 この方法では、クライアントの退行が促されてしまうので、毎日会わないと危ないのです。だから精神分析は、その方法と頻度とが統合されているわけなのです。 

 

(29―2)社会的関係範囲内の間隔 

 カウンセリングや心理療法などにおける間隔はその方法論と密接に結びついていることの一例でした。どれくらいの頻度で面接を組むかということには、その方法とそれを実施する臨床家の考え方とを反映するものであります。私も、私の考えに従って、週に一回を基本とし、多い場合、必要な場合は週に二回とし、長い場合でも二週に一回を範囲としております。 

 私のカウンセリングは対面式です。対面で会うということはそれが社会的な関係の枠をはみ出していないということを示しています。通常の社会的関係で面接が行われるということです。 

 カウンセリングの関係を通常の社会的な関係の一つとして捉えると、その頻度も通常の社会的な関係の枠内である方が望ましいと私は考えています。その意味でも週に一回というのは妥当なところではないかと私は考えています。 

 

(29―3)「治療」は生活の一部にすること 

 本項では間隔がすぎること、カウンセリングの頻度が密すぎることについて述べようと思うのですが、では、一体、なぜ詰めすぎるのが望ましくないのでしょうか。精神分析が週に五日やっているのだから、別に週に一回ということにこだわらなくてもいいではないかと言われそうな感じもしています。 

 精神分析の例で述べましたが、退行が促されるような方法では頻度を密にした方がいいのです。でも、その一方で、毎日会うということによってクライアントに退行が生じやすくなるという点も考慮しておくことが望ましいと思います。 

 私も過去に経験があるのですが、毎日のように面接を組むとどうしてもクライアントの退行を促してしまうように思うのです。あまり退行が急激だったり深かったりすると、その人は日常生活への適応が困難に感じられてくるようです。治療的にそれが必要だとしても、私のカウンセリングルームのような場所においては、それをしないに越したことはないと考えています。 

 カウンセリングの頻度が密であることの問題点の一つがそのような退行に関する側面であります。もう一つの問題点がありまして、それは、毎日の治療はそれ自体がクライアントの生活の大部分を占めてしまうことに関する弊害であります。 

 心も体も、もし「病」に罹れば治療をするべきです。病気じゃなくても健康のために何かしらのことをする必要はあるのです。ただし、治療や健康法はその人の生活のあくまでも一部分であるべきであると私は考えています。治療を生活のすべてに、治療を人生のすべてにしてしまうのは良くないことだと思うのです。 

 しばしばそのような人とお会いするのです。ある人は自分の「病気」を本当に恐れていました。その「病気」は確かにその人が罹患していることなのです。ただ、彼は生活のほとんどすべてをその治療に捧げているのです。恐らく、彼の不安が強すぎるのでそうせざるを得ないのでしょうが、彼にはもはや「治療」以外の生活が失われていたのでした。こうなると、彼にとって、「治癒」するとは、生活のすべてを失うことを意味してしまうのです。そのために、彼は「病気」から解放されてはいけなかったのです。 

 治療やその他の望ましい事柄に取り組む時、生活のすべてをそれに費やそうとしてしまう人が実際におられるのです。それは却って、その人の生を縮小させてしまうことになり、いずれ自分の生の虚しさを体験する日がくるかもしれないと私は心配になるのです。「治療」がいくら正しい行為であったとしても、それは自分の生活の一部に留めておく方がいいと私は思うのです。 

 このような熱心な治療意欲、熱心すぎるほどの治療への取り組みをしてしまう人に関しては、私はいつか別項にて取り上げたいと思います。本項ではこれ以上深入りしないでおきましょう。肝心な点は、治療を生活や人生のすべてにしてしまうという現象は、その人の抱える「病」の一つの表れであるという視点であります。治療者はこういう熱心な患者をとても好きになってしまうかもしれません。そして、治療者のその感情に裏打ちされて、患者は自分のその治療態度が望ましいことのように思い込んでしまうかもしれません。できることなら、私はそういう事態は避けたいと願うのです。 

 そういう願いもあって、私は、一人のクライアントと多くても週に二回とし、それ以上は面接を組まないことにしています。 

 

(29―4)毎日受けたいと希望したクライアントの例 

 ここで、毎日でも受けに来たいと言った一人のクライアントの事例を掲げることにします。 

 この人は男性でした。話の内容については省略しますが、最初の一時間の面接を彼が経験して、その時に、私は「また受けたいという気持ちがあるかどうか」を彼に尋ねました。 

 彼は「また受けたい」と答えました。このカウンセリングは彼にとって何か良い体験になっていたのだと思います。そして、彼は「明日もまた来たい」と述べ、「できれば毎日受けたい」とまで言うのです。 

 私は、そこで敢えて、週に一回のペースでやっていきましょうという提案をしました。 

 彼は「そんな一週間も待てない」と言って、少しお怒りになられました。 

 誤解のないように付加しておくのですが、私が彼の要望を敢えて断ったのは、彼の場合「待つ」ということが大きなテーマとしてあったからなのです。 

 また、彼の話から、彼が今の自分の生活に耐えられないでいるということが、私にもく伝わっていました。彼は自分の生活空間から毎日距離を置く必要を感じていたのかもしれません。だから、彼にとって、「待つ」ということは、この苦しい生活空間に留まらなければならないということを意味しているわけなのです。 

 それから私と彼との間で、次回の日時についてのやりとりが続いたのですが、最終的に、次回の面接はその三日後ということで話がまとまったのです。 

 この三日という期間は、彼が今の生活において耐え得る限界点を示すものだと思います。私はそれを承諾しました。 

 それから私は週に二回のペースでやっていきましょうという提案を彼に出しました。彼は、半ば不承不承ながら、それに応じてくれました。 

 三日後、彼は再び訪れました。この三日間はとてもたいへんだったと彼は語ります。しかし、彼がこの時、カウンセリングなしで三日間耐えたことは良かったと私は思っています。 

 私は密かに予測を立てていました。彼はこの三日間が耐えられなくて、何らかの接触(例えば電話をかけてくるとか)をしてくるかもしれないと予測していたのです。実際、そのような例もありますし、彼にもその可能性がありました。 

 ありがたいことに、彼は、私の予測に反して、そういうことをしませんでした。苦しくても三日間耐える強さが、また三日後という約束を守る強さが彼にはあったということが、これで分かるのです。 

 これはクライアントの状況や状態によっても変わってきますので、個々のケースに応じて考えていかなければならない問題なのですが、私の基本的な考えは次のものです。 

 彼には彼の今現在における生活があるのです。その生活状況はいずれは変わっていかなければならないとしても、今はその中で彼は生を営まなければならないのです。一時的にそこから逃避することができたとしても、彼にはやはりそこに戻ってもらわなければならないのです。 

 4回目辺りから、彼にはそのことに対する自覚が生じてきました。彼は、後になって打ち明けたことですが、毎日受けたいという彼の希望を私がのまなかったということで、彼は自分が嫌われているのだろうかとか、避けられているのではないかと、いろいろ心をかき乱されたようでした。 

 週に二回のペースで続けて行って、彼が自分が支えを得ているという体験をしていくほど、この間隔は彼にとって耐えがたいものではなくなっていったのです。カウンセリングにおいて、支えを彼が体験していくほど、彼は耐えられるようになっていったのです。 

 このことは言い換えると、彼が彼の現実生活の中に留まることが以前よりも容易になってきているということです。毎日やっていれば、彼はこの体験をしなかったかもしれないと、私はそう思うのです。 

 以後、週に二回のペースだったのが、週に一回でも十分彼は耐えられるようになり、最後は二週に一回でもやっていけるようになったのでした。 

 付け加えておきますと、彼が支えを経験していくに従って、彼は自分の生活に留まれるようになっていきました。そして、そこに留まることができる度合いに応じて、彼はその生活に対して働きかけるようになっていったのです。彼はもはや逃避を考えることはなく、その分のエネルギーを生活改善の方に注ぐようになっていたのです。 

 もし、彼の要望通りに毎日カウンセリングをしていたとしたら、どうなっていたことでしょう。私は儲かるかもしれません。でも、そのカウンセリングはあまりに彼の生活領域を締めすぎてしまうことになっていたでしょう。 

 そして、そうなると、カウンセリングは彼にとっては「日課」となってしまい、それが特別な場所や時間ではなくなっていったでしょう。カウンセリングは彼の日常に溶け込んでしまって、生活が耐えられないの同じように、このカウンセリングも耐えられないというふうに体験していたかもしれません。 

 もし、カウンセリングが彼の日常に溶け込み過ぎてしまったとすれば、このカウンセリングで彼に「守り」を提供することはできなくなっていたでしょう。 

 以上、カウンセリングの間隔に関して、間隔を縮めすぎるよりも、ある程度の間隔でやって行く方が、それによって得られるものもあるという点を、事例を通して述べてきました。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー