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<テーマ094>録音(2)

<テーマ94>録音(2)

 

 録音されたテープが残っているということは、とても役立つものであります。面接を終えて、クライアントが何を話し、私が何を伝えたかということは思い出すことができます。これは数日を経ても、ある程度思い出せるものであります。しかし、クライアントがそれをどのように話したか、私がそれをどのように伝えたかということは、しばしば記憶が曖昧になるのであります。「どのように」という部分を確かめるのに、テープ録音がとても助かるのであります。 

 また、その時は気づかなかったけれど、後からふと気になった事柄を確認するのにも録音テープは役に立つのであります。そのような例を挙げましょう。 

 

 これは私がカウンセリングの研修中に経験したことであります。クライアントは女性で主婦の方でした。クライアントの息子が引きこもり状態になっていて、クライアントである母親がそれを気に病んでいたのでした。母親であるクライアントは、息子の現在の状態に関して、深い責任感と罪悪感を抱いていました。息子のために、自分が頑張らなければならないと感じておられるようでした。 

 ある面接時、家から一歩も出ようとしない、何もしようとしない息子のことをクライアントが話している時、私が「そのような息子さんを見て、どう思いますか」と尋ねてみました。彼女は「息子が不憫です」と答えられたのであります。私は、その時は、特に引っかかることもなく聞いていたのでした。 

 しかし、後日、このクライアントがあの時「不憫だ」と言ったのではなかったかと、ふと思い出し、どうしてもその言葉が引っかかってしまったのでした。私はテープを聴きなおして、彼女が確かに「不憫だ」と言っているのを確認しました。我ながら自分の鈍感さに呆れ返るのでありますが、私はその時には気づかずに、素通りしてしまっていたのでした。「不憫だ」と感じることは、果たして母親が息子に対して抱く自然な感情なのだろうかと、私は初めて疑問を感じたのであります。 

 彼女はなぜ「可哀そう」とか「哀れだ」とかいった他の言葉ではなく、「不憫だ」という言葉を選んだのだろうか、どうして他の言葉ではなくこの言葉が彼女から出てきたのだろうか、私は不思議に思うようになったのでした。彼女が「息子が不憫だ」と語って、私はそれをそのまま受け止めたのですが、いかに私が彼女を理解していないか、理解していると思い込んでいたのかを痛感したのであります。そして、テープで確認するということができなかったら、私はその点を曖昧なままにして、以後のカウンセリングをしていただろうと思います。 

 ともかく「不憫」とはどういうことだろうということを私は調べなくてはいられませんでした。辞書を引いても、せいぜい「人を憐れむこと」などと意味が載っているだけでありますので、言葉そのものの意味はあまり役に立ちませんでした。 

 次に、私は「私自身はどのような人に対して不憫という感情を抱くだろうか」を自問してみました。「不憫」にもっとも近い感情を抱くのは、私の場合、ホームレスの人を見た時であるとその時に気づきました。 

 当時、大阪の扇町公園にはビニールシートを張ったホームレスの人たちが何人もおられました。私は次の休日にわざわざ扇町公園まで行って、それとなくホームレスの人たちを眺めていました。じーっと彼らを見ている、心の中で「不憫、不憫」と繰り返しながら、私はただ座って、彼らを眺めているのでした。何としても「不憫」を突き止めてやろうと必死でした。 

 そうして眺めている間に、私はふとある出来事を、それもその時にはすっかり忘れていたある出来事を思い出したのであります。それは、その二、三年前だったかと思いますが、私が一人夜道を歩いていると、道端からいきなりホームレスの人がガバッと起き上がって、何やらわめきながら、棒のようなものを振りかざして、私に向かってくるのでした。私は怖くなって、一目散に駆け出しました。どうやら、うっかり彼のテリトリーに足を踏み入れてしまったようです。この出来事を思い出し、よく考えてみると、この体験を機にホームレスの人たちに対する見方が変わってきたように思い出されたのでした。それ以前の私は、ホームレスの人に対して、もう少し温かい目で見ることができていたように記憶しているのであります。 

 つまり、私にとって「不憫」とはこういうものだったのです。私はホームレスの人を「不憫」に思っている。彼らは援助が必要な人たちであり、否応なしにホームレスになってしまったのだということを頭では理解している。しかし、追いかけられた怖い体験から、できることなら私は彼らとは関わりたくないと思ってしまっている。彼らに同情はできるけど、同時に私は彼らに恐れを抱いている。できることなら彼らに対して「傍観者」でいたいと思っている。そうしたいくつもの感情が複雑に絡み合って、「不憫」という感情になってしまっているのだということであります。 

 私は自分の「不憫」理解に基づいて、今度、この母親が「息子が不憫だ」ということを表現した時には、必ずそれを取り上げてみようと考えていました。そのチャンスは三回後に訪れました。彼女は息子のためを思って、できるだけのことはしてやろうと考えていました。自分が息子をそのような状態にしてしまったのだと言って、自分を責めていました。彼女が再び「そういう息子を見ていると不憫で」と語った時、私は「息子さんのことを何とかしてあげたいと思う一方で、息子さんのことにもう関わりたくないくらいのお気持ちがあるのではありませんか」と尋ねてみました。さすがに彼女はびっくりされたようでありました。しかし、しばらく間をおいてから、彼女は「息子のことではもう疲れ果てているんです。もううんざりしているんです」と、初めて、これまで語ってきたこととは正反対のことを述べられたのでした。それを表現できなかったことが彼女を苦しめていたのでありました。息子のひきこもりに関して、彼女は自責感情を抱いておりましたし、夫や周囲の人からは母親の育て方が悪かったからだなどと言われ続けていたのでありました。息子を見放すような感情は、たとえ心の中で抱いていたとしても、決して口に出すことはできなかったのでした。彼女はそれをすることが禁じられていたわけであり、彼女自身も自らそれを禁じていたのでありました。 

 この例については、これ以上詳細に述べる余裕がないのですが、その後、徐々にではありますが、禁じられていた感情が表現され、解放されることで、あくまでも状況は変わっていなくても、彼女自身の状態は見違えるように落ち着いていったのであります。息子がいかなる理由でひきこもっているにせよ、母親である彼女は、母親として当然のことをしている限り、息子と一緒に共倒れしていく必要がないということ、彼女自身の生活、人生を送っていってもいいということが体験されていったのであります。 

 

 この例では、録音したテープを聴きなおして、クライアントの言葉を確認できたことが、その後のクライアント理解に有益となったのであります。そもそも聞き流してしまった私に問題があるのですが、どれだけ熟練したカウンセラーでも時にはそういうことをしてしまうかもしれないと私は思います。注意深く聴くようには努めていても、決して過信してはいけないのだと私は考えるのであります。そして、テープ録音は、クライアントの利益にもつながることがあるのだということを理解していただければと思います。 

 

(文責:寺戸順司高槻カウンセリングセンター代表カウンセラー