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<テーマ104>失錯行為(4)~自己懲罰的な失錯

<テーマ104> 失錯行為(4)~自己懲罰的な失錯 

 

(104―1)自己懲罰的な失錯 

(104―2)書類を紛失した男性クライアントの例 

(104―3)手を怪我した女性クライアントの例 

(104―4)失錯行為の意味とタイミング 

(104―5)自罰的な行動化に代えて 

(104―6)注と補足 

 

 

(104-1)自己懲罰的な失錯 

 失錯行為は、その人の生に対する構えや姿勢と密接している場合もあります。クライアントはいくつかそのような失錯行為を報告してくれるのです。簡略化して言えば、それは、自己懲罰的な生き方をしている人は、失錯行為においても、自己懲罰的な失錯をしてしまうということです。いくつか、このような例を挙げてみましょう。 

 

(104-2)書類を紛失した男性クライアントの例 

 あるクライアントは仕事で必要な書類、それも大事な書類を紛失してしまったと語りました。それは彼がカウンセリングを受けに来たそもそもの問題とは無関係な出来事でありましたが、私たちはそれについても話し合いました。彼は何度探してもそれが見当たらないということで、落ち込んでいました。仕事場も、家の中も、隈なく探したのですが、彼はどうしても書類を見つけ出すことができませんでした。何週間も探してまわった挙句、 

「もう、諦めて、失くしてしまいましたと上司に報告するつもりです」 

 と彼は決意しました。そしてそれを実行に移したのです。当然、上司からは厳しく叱られました。意気阻喪した彼が、その日、家に帰ると、自分の部屋の中で、あれほど探して見つからなかった書類を発見したのでした。 

 この日のことを話してから、彼は「上司に報告するのをもう一日待ったら良かった」というように述べました。 

 私はもう少し詳しく尋ねてみました。とても興味を覚えたからです。 

書類は彼の部屋にあったのです。そして、彼の部屋は何度も探されたのです。当然、書類が出てきた個所も彼が繰り返し探した場所でした。 

従って、彼の失錯行為というのは、書類を紛失したということではなくて、そこにあった書類を見落としていたというところにあるということになります。何度も彼は書類がそこにあるのを見ていたはずです。しかし、彼にはそれが見えていないのでした。 

 ここにはもう一つ、タイミングの問題があります。彼が書類紛失を報告して、上司から叱られたまさにその日に、あれほど探していた書類を彼は発見したのです。これは偶然でしょうか。 

彼の言葉によれば、その日に発見されるのであれば、報告するのをもう一日待った方が良かったということです。このことはつまり、上司に叱られたということと書類の発見とは無関係なものと彼にはみなされていたのです。彼が、上司から罰を受けたからこそ、書類を発見できたのかもしれないという発想を彼がしていないのは明らかです。 

 私の考えるところでは、彼がもう一日待ってみたとしても、その日はやはり今までと同様に発見できないということを繰り返していただろうと思います。おかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、彼の自己処罰が成就したからこそ、彼は書類を発見することができたのです。 

 彼の自己処罰傾向というものは、カウンセリングの初期から明確に見えていました。最初の頃、彼を処罰するのは、周囲の視線でした。書類を紛失した頃、彼はそのような視線から罰せられているという恐れからはかなり解放されていました。しかし、この解放(もしくは彼の内面的な変容による解放)を、彼はまだ十分には受け入れることができなかったのではないかと私は当時考えました。それで別の形の処罰が彼には必要となったのかもしれなかったのです。 

処罰が必要と言うと、首を傾げたくなるかもしれません。これは彼の経験してきた事柄を見れば頷けるものでありますが、端的に言うと、彼は常に罰せられるポジションに置かれていたわけです。このポジションは彼には苦しいことでありましたが、そこから抜け出ることができるということが、当時の彼にはまだ信じられないのでした。 

そこから一部でも抜け始めた頃に、こういう失錯行為が生じているのです。彼は上司(彼にとっては父親のような対象)から罰せられることによって、以前のポジションに留まる結果になったのです。 

これはある意味では後退なのです。視線によって罰せられる感情は減少しましたが、彼は罰せられる自分をこうして再体験してしまったわけです。彼にとって、直接的な処罰を体験するということは、過去に戻ろうとする傾向であり、行動化でもあったのです。 

 

(104-3)手を怪我した女性クライアントの例 

 もう一例、自分自身を罰してしまった、それも失錯行為という形で罰してしまったというクライアントの例を挙げます。 

 このクライアントは女性で母親でした。彼女の子供には生まれつき障害があったのです。それでも彼女は障害のある子供を献身的に育てていたのでした。とても健気な人だなと私は感じていました。彼女は、カウンセリングに来て、子供との楽しい体験を語ります。休みの日に子供と何をして遊んだとか、どこへ行ったとか、そういう話をされることが多かったのです。 

 ある時、回数も十回は超えていたのでしたが、彼女は子供の障害のことで、いかに自分を責めているかということを涙ながらに語りました。彼女がその感情を言葉にしたのは初めてでした。妊娠中にもっと自分がきちんと注意していれば良かったとか、そういう後悔の念を話し、いかに自分が子供に対して悪いことをしたかを切々と語られるのでした。私は、その気持ちを十分語るように促しました。 

 翌週、彼女は再び面接室に来ました。その時、手に包帯を巻いておられたのでした。私が驚いて、どうしたのですかと尋ねると、彼女は自転車で事故したと答えるのです。 

彼女の家で、自転車をしまう時に、手を挟んでしまったのだということでした。彼女はその生活において、毎日、自転車に乗るのです。従って、自転車をしまうというのは毎日していることなのです。ところが、その時に限って、彼女は手を挟んで、怪我をしてしまったのです。 

 問題はこの怪我をした日です。実は、彼女は前回のカウンセリングの帰りにこの事故を起こしたのです。彼女は「偶然ですよ」と言うのでが、私はそのようには捉えませんでした。 

 ポイントは次の点であります。彼女はそれを毎日のようにしていて、怪我をしたことは一度もないということです。よりによって怪我をしたその日に、彼女は自分がいかに罪深い人間であるかということを表明しているという点であります。 

 彼女は自分が子供に対して罪深い人間であると表現しました。しかし、私は彼女を罰したりはしませんでした。そのために、彼女はこういう形で自分を罰してしまったのかもしれないのです。私の受容が足りなかったのかもしれません。反省する次第です。 

 また、怪我をした領域が手であるということも私は気になりました。なぜ手だったのでしょうか。この子に「私が手をかけてしまった」というように感じられていたのかもしれません。どのような意味があるにしろ、彼女の手が処罰の対象として選ばれていると考えることができ、それにも何か意味があると考えることができるのです。 

 彼女の個人的な感情を別としても、手というのは罪ということと関連のある部位であります。「犯罪に手を染める」とか「相手に手を出す」「会社の金に手をつける」などの表現を見ると、罪と「手」ということの関連が深いということが分かるのです(注1)。 

 私は彼女の怪我について、もっと掘り下げたかったのですが、彼女は「済んだことだから」と、それに「単なる事故だったから」ということで、それ以上には語ろうとしませんでした。 

 彼女の罪悪感はその後は語られることはありませんでした。ただ、これ以後、彼女の状態は見る見るうちに良くなっていったのです。これは罪悪感が語られたということと、それに伴っての処罰を彼女自身が受けたことによるものだと私は捉えております。 

 その後の彼女は、一応、状態が好転していったので、カウンセリングを終了したのですが、私としては一抹の不安を残すケースでありました。 

 

(104-4)失錯行為の意味とタイミング 

 こういう失錯行為は、自罰的な様相を帯びているものです。本来なら「自傷」のページで取り上げた方が良かったのかもしれませんが、失錯行為にはこのような種類のものもあると私は考えておりますので、ここに掲載することにしました。 

 一人目の男性は書類が見えていなかったという失錯であり、二人目の母親はおよそ事故を起こさないような場面で事故を起こしたという失錯であります。 

それぞれには意味がありました。男性の方は父親からの処罰、母親の方は我が手を罰するという意味合いでした。それは、そのまま彼らの人生において大きな地位を占めている事柄に関係していました。しかもタイミングに焦点を当てると、あたかもそれらの失錯行為は、起きるべくして起きたかのような印象を私は受けるのです。 

従って、単なる「事故」とか「偶然」とかいう形で、これらの行為を済ましてしまわないようにしなければならないと私は考えるのです。 

 

(104―5)自罰的行動化に代えて 

 ここで挙げた二人のクライアントは、自罰的な行動化(本人たちは意図的にそれをしているわけではありません)をしてしまっているという理解をしました。彼らはそのような行動化をする代わりにどういうことをしていく必要があったでしょうか。 

 書類を紛失した男性は、処罰を受けるポジションから逃れるということが、彼のテーマとなると私は理解しております。そして、そのことは、彼が恐れている対象を恐れなくなるということでもあります。いつ叱られるかとビクビクしなくなるということであり、それは処罰を下す対象から解放されるということであります。 

そのためには、彼は必要な支えや守りを内在化していかなければならず、そうした作業を私との間でしていかなければならないということであります。 

 もう一人の母親の方はどうでしょうか。彼女は手を怪我する代わりにどういうことを経験していく必要があったのでしょうか。 

彼女は我が子の障害に罪悪感を抱いています。その罪の償いとして、彼女は手を罰したのです。これは事故という形を取りました。書類を紛失した男性と比較してみると、彼の方が処罰を他者に行ってもらっている分、より「神経症」的な行為であると見做すことができるかもしれません。しかし、どちらも自分を処罰するような形でそれが起きているということでは共通しています。 

彼女は事故の後、状態が良くなっていきましたが、それは自己処罰が成就したためのものである可能性が高いと私は捉えております。従って、この好転は一時的なもので終わるかもしれないのです。 

本当に彼女にとって必要なことは何だったのでしょうか。それは、彼女は自分の罪悪感や子供に対する感情を十分に表現しなければならないということだと私は思うのです。彼女は最初の十数回に渡って、面接の場でそれができずにいたのです。少しずつそれができていれば良かったと思いますし、私もそのような働きかけをもっとするべきだったと今では捉えております。彼女の場合、それが一気に噴き出したので、一回の面接では十分に処理し切れずに、家まで持ち帰ってしまったのだと思います。 

 もう一つ重要なことは、彼女は(もちろん書類を紛失した男性も同様ですが)、許されるべきだったのです。私はそう捉えております。自分が許されるべき人間ではないからこそ、自分は罰せられなければならないということになってしまうのではないでしょうか。 

そして、その処罰を無意識的に遂行してしまうのです。しかし、当人たちは、それが自己処罰的であるとは認識していないし、そのような観点で失錯行為を捉えていないのです。失錯行為の背景には必ず何らかの「禁止」が働いているものです。当人をして禁じられているものこそ、表現され、受け入れられ、当人の内に収まり、それが許されていかなければならないものなのです。 

 

(104―6)注と補足 

(注1)罪、あるいは罪悪感ということと手との関係について。<テーマ105>における、我が子を殺してしまった男性の引用例を参照のこと。この男性は後に機械に手を挟んで右腕を失って(処分して)いる。文学ではマクベス夫人の半夢遊状態での手洗い行為(「マクベス」シェイクスピア)がよく知られています。イエスを十字架にかけたピラトが、手を洗う場面を想起されてもよいでしょう。(「・・・水を持ってこさせて、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血についてわたしには責任がない。お前たちの問題だ』」マタイによる福音書27章24)。手は罪意識と関連があり、手を洗う、手を処分するということは、その贖罪の意味があると考えられるのです。 

 

(文責:寺戸順司高槻カウンセリングセンター代表カウンセラー