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<テーマ110>自罰的行為のプロセス

<テーマ110> 自罰的行為のプロセス 

 

(110―1)自罰的な意味合いを持つ自傷 

 自傷行為をすると言っても、そこにはいろんなタイプのものがあります。いろんなタイプがあるにもかかわらず、私はここで「自傷行為」という一つカテゴリーにひっくるめてしまっているので、読む人は混乱されたり、「これは自分には当てはまらないな」とお感じになられたりされるのではないかと思います。 

 本項では、自傷行為が自罰的な意味合いを持っているというようなタイプに関して述べていくことにします。 

 

(110―2)自罰的行為の例 

 自傷行為が伴わなくとも、自罰的な人というのは、カウンセリングの場面で、よく見かけるものであります。まず、広く自罰行為というものを概観してみようと思います。そこにはどのような「からくり」が働いているのでしょうか。 

 また、私自身の例から始めることにしますが、お読みになられている方は、自分自身を罰してしまったというような例を思い浮かべてお読みください。 

 ある時、私はお酒で失敗をしました。醜態を晒してしまった自分が許せなく感じていました。酒で太った体を見て、私はハンガーストライキを自分に課したのであります。酒を止め、絶食しようと試みたのであります。絶食と言っても、一日に限られた分量だけを食べるようにしていて、そこまでして自分を律しなくてはいられないような気持ちだったのであります。当然、こういうものは長続きするものではなく、しばらくすると、普段の食生活に戻り、お酒も飲むようになり、しばらくして再び酒で失敗し、醜態を晒すのであります。この時、私が自らに課した絶食は自分を罰するためという意味合いが強いものでした。 

 私自身ではありませんが、このような人も私は知っています。その人の例の方が理解しやすいかもしれません。彼は奥さんに浮気がばれてしまったのです。それで彼は反省し、頭を丸坊主にしたのでした。これを自罰的な行為とみなすかどうかは微妙なところですが、彼は自分自身の反省のために、その反省を示すために髪を剃ったのでありました。しかし、その内、髪も戻り、彼は再び浮気をしていったのでありました。 

 

(110―3)「元行為」「贖罪行為」「免罪符」という言葉について 

 上の二つの例から、一つの構図を描いてみることにしますが、その前に、ここでいくつか言葉を置き換えることにしましょう。私の例と浮気男性の例をあげたのでしたが、まず元となる行為がありました。それは、私がお酒で醜態を晒したという行為であり、妻子のある男性が浮気をしていたという行為であります。これを「元行為」とでも名付けましょう。 

 この「元行為」に対して、私は絶食という行為を、彼は丸坊主にするという行為を取りました。この行為を「贖罪行為」と名づけます。 

 この「贖罪行為」によってもたらされるものを「免罪符」と名づけます。なぜ、こういう名前を付けるのかということはそのうち分かってくるでしょう。 

 

(110―4)自罰的行為の構図 

「元行為」―「贖罪行為」―「免罪符」を経て、再び「元行為」へ戻るというのが、この自罰的行為の構図であります。私は再びお酒で醜態を晒し、彼は再び浮気をしているのであります。一巡して「元行為」を繰り返すのであります。繰り返された「元行為」に対して、やはり「贖罪行為」と「免罪符」が引き続き生じるのであります。従って、一つの循環を描くような構図なのであります。 

「元行為」から「贖罪行為」へと向かわせるのは、一言で言えば罪悪感なのであります。「贖罪行為」から「免罪符」へと向かわせるのは、一言で言えば解放感であります。そして、当人たちが懸命になって取り組んでいるのは「贖罪行為」なのであります。このことをもう少し詳しく見ていきましょう。 

「元行為」は当人に罪悪感や恥辱感をもたらすものであります。これは当人にはとても辛いことであります。この「元行為」に対して、その罪を償おうとでもするかのように「贖罪行為」が生じているのであります。しかし、この「贖罪行為」は自身が体験している罪悪感に対してなされるものであり、迷惑をかけた誰かのためになされるものではないのであります。基本的には、自己耽溺的な行為であると見ることができるでしょう。そして、「贖罪行為」に取り組んでいると、自分がいかにも反省し、罪を償っているという感覚が得られるものであります。しかし、この感覚は錯覚でしかありません。 

ところで、この「贖罪行為」がしばしば自罰的な色彩を帯びるのであります。こうして自分を罰していると、最初に感じられていた罪悪感が薄まるのであります。罪悪感が薄らいでいくということは、その人が罪から解放されていくように体験されるということであります。こういう意味で、それを解放感(注1)と呼んでいるのであります。解放感を当人が得ていくにつれて、罪悪感が薄らいでいくわけですから、これはつまり「これだけのことをしたのだから、もう許されるだろう」という感情を生み出すわけであります。自分が許されていくという感覚を得るわけであります。この感情は当人自身に「免罪符」を発行するような形式となるのであります。こうして、当人は「元行為」の罪から許されるわけでありまして、罪から解放されると、やはり同じ「元行為」を繰り返してしまうのであります。 

 従って、自罰行為や自分を責めるという行為は、「贖罪」の意味合いを持ち、自分自身に「免罪符」を付与することをその目標とするということになるのであります。もちろん、すべての自罰行為がこのような構図を持つとは断言できませんが、意外とこの構図が見られるのも事実であります。 

 

(110―5)なぜ自罰的行為が依存的になるのか 

 自罰的な人、あるいは自虐的な人のその行為が依存性を帯びるというのは、端的に申しますと、その「贖罪行為」が解放感を当人にもたらすからであります。俗な言い方をすれば、その人に「癒し」を与えているのであります。その人は自罰的な行為を繰り返しているのですが、同時に自分が許されるという行為をも繰り返しているということになるのであります。罪意識から解放される感じ、自分自身が許されていく感じというものが、当人をして、それにのめり込ませることになる要因として働いているように、私は捉えております。 

 

(110―6)当人たちは何に取り組んでいるのか 

 特に注目しなければならないことなのですが、この構図そのものが、実は自己欺瞞なのであります。まず、「元行為」があったのです。当人たちはこの「元行為」に直接取り組んでいるのではないのであります。その代りに、「贖罪行為」を持ち出し、この「贖罪行為」に取り組んでいることで、あたかも「元行為」に取り組んでいるという錯覚を自らに生じさせているのであります。「贖罪行為」を「元行為」の代わりにする、もしくは「贖罪行為」を「元行為」に対しての目くらましとして持ち出していると表現してもいいかと思います。そして、「元行為」を再び繰り返しているということが、とりもなおさず、当人が「元行為」そのものには何一つ取り組んでいなかったということを示しているのであります。 

 この循環を断ち切るためには、私は「元行為」そのものに取り組むべきだと考えております。「贖罪行為」へと向かってはならないということであります。上の例では、私の場合、お酒で醜態を晒したということが「元行為」でした。私はそこでお酒の問題そのものに取り組まなければならないのでした。浮気をした男性の場合だと、彼が浮気をしたという事実そのものを問題にして、浮気の問題に取り組まなければならなかったのであります。私もこの男性も、本当に取り組まなければならなかった問題をそっちのけにして、「贖罪行為」に没頭していたのであります。この「贖罪行為」は、私たちが自分の問題、本当に取り組まなければならない問題から、目を背けさせることになっているのであります。本当の問題を見えなくさせてしまっているのであります。それでいながら、当人たちは十分に取り組んで反省したという感覚を体験しているのであります。だから自己欺瞞的なのであります。 

 

(110―7)「免罪符」ということについて 

 私は西洋史に詳しくはないので、正確な知識ではないかもしれませんが、ローマ・カトリックは免罪符を発行していました。罪ある(と見做される)行為をしても、懺悔して贖罪すれば、免罪符が付与され、その人の罪は許されたのでした。贖罪するのならまだしも、お金を出して免罪符を購入することもできたそうです。いずれにしろ、許されたその人は同じ罪を繰り返すのであります。こうして、カトリックが堕落していったというのであります。これに対してマルティン・ルターが抗議(プロテスト)したのであります。16世紀のことであります。こうしてローマ・カトリックは正教とプロテスタントに二分されるのですが、この時、ルターは何に対してプロテストしたのでしょうか。免罪符に対してではなかったと私は捉えております。彼らの罪ある行為、つまり「元行為」そのものに対して抗議したのだと私は理解しております。 

 ルターのプロテストはともかくとして、この時、免罪符というものが、罪を許したということの証明であるだけでなく、次の罪に対する保証のような役割もあったのだと思われます。つまり、免罪符を貰えるということは、次に同じことをしても許されるということの保証にもなるということであります。免罪符にはそういう性質もあったのではないかと私は思うのであります。 

 

(110-8)将来の罪への保証としての「免罪符」 

 自己懲罰をする人にとっての「免罪符」も同じような働きをするものと私は思います。浮気を反省して髪を剃った男性は、免罪符を付与することで、前の浮気を償うと同時に、次の浮気の許可を自らに得ているようなものではなかったかと思います。私のハンガーストライキもそれは同様であります。 

 ともかく、それは真の反省ではなかったのであります。反省していると思い込んでいるだけなのであります。これで許される、だからいいだろうということになれば、それは同時に次に同じことをやっても許されるという保証を得たようなものであります。浮気がばれた男性の場合、恐らく、一度目の浮気は恐る恐るやったのだろうと思いますが、二度目の浮気はそれよりもかなり平気にやったのではないかと私は思います。そして「贖罪行為」をする覚悟も、回を重ねるほどに、恐れられなくなったのではないかと思います。 

 私の持論として、ある人が同じことを繰り返してしまうのは、その人が本当に変わっていないからだと捉えております。もしくは、その人は本当に取り組むべき事柄に取り組んでいないか、その事柄に気づいていないかなのだと捉えております。その際に、この「贖罪行為」や「免罪符」などがその人の目を眩ませていることも多いだろうと思うのであります。 

 

(110―9)自傷行為との関連 

 自罰的な傾向がそのまま自傷行為につながるとは限らないかもしれませんが、自傷行為のほとんどは自罰的な様相を帯びているものであります。例えば、リストカットする人は、その行為に移る直前に、自分がとても「悪い」存在であるという感覚に襲われたりするのであります。その感覚を除去するための救済行為としてリストカットをするのですが、一方で、それは自罰的な色彩をも帯びているのであります。 

 自傷者は、この時、とてもたいへんな状態だろうと私は推測します。なぜなら、罰を受けるべき自分と罰を下す自分と、あたかも一人で二役こなすようなものであるからであります。つまり「罪人」としての自己に同一視し、同時に「懲罰者」としての自己にも同一視しなければならないからであり、このような状態は当人をしてアイデンティティの混乱を引き起こすだろうと思われるのであります。しばしば、その時にパニックのような状態に陥るのは、同一視するべき自己が複数に分裂しているからだと思います。 

 ここではさらに、「免罪符」を得るだけでなく、分裂した自己が一つに収斂するという「救済」も見られるのであります。「懲罰者」が罰し、「罪人」が罰を受けるのであります。そうすることで両者の関係に調和がもたらされるのであります。 

 また別項で取り上げたいとは思うのですが、自傷行為が耽溺性を帯びるのは、そこに「救済」があるからであります。そして、問題なのは、それ以外の「救済」手段が存在しないかのように体験されていることではないだろうかと、私は捉えているのであります。 

 

(110-10)要約 

 本項を要約しておきます。 

 自己懲罰を「元行為」―「贖罪行為」―「免罪符」という循環するプロセスとして捉えました。「贖罪行為」は解放感をもたらすので、耽溺性を帯びるということ、それが自己欺瞞的な行為であることも述べました。これに対しては、「元行為」そのものに取り組まなければならないということを述べてきました。 

 

(110―11)注と補足 

(注1)解放感というのは適切な言葉ではないかもしれません。この感情をどのように表現するかで私はずいぶん迷ったのであります。この構図においては、自分の犯した「罪」に対して、自分で決めた自己流の「贖罪」をしているのであります。一つの自己完結が見られるのであります。実際には、例に挙げた男性も私も、その自罰的な「贖罪行為」は他者から強制されたものではなく、自分たちで決めたことをしているだけなのであります。迷惑をかけた他者のための「贖罪」ではなく、自分自身のための「贖罪」というニュアンスを帯びるわけであります。言い換えれば、「贖罪」という装いを借りて、自分自身を「救済」するためにこういうことをしているということであります。従って、この例における「贖罪行為」は自己完結的であり、自己満足的であり、自己欺瞞的でさえあるわけであります。しかし、それによってもたらされる感情というのは、自分は十分反省している、やるだけのことはやったとか、誠意を示したとかいう感じであったりするわけであります。これはその人をして罪悪感から解放するものであろうということが言えますので、「解放感」という言葉を用いたのであります。 

 

(文責:寺戸順司高槻カウンセリングセンター代表カウンセラー