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<テーマ111>「まだ、そのレベルに達していない」?

<テーマ111>「まだ、そのレベルに達していない」? 

 

(111―1)はじめに 

(111―2)その言葉通りには受け取れない 

(111―3)何かを代弁する表現 

(111―4)「レベル」ということについて 

(111―5)傷つきと回避 

(111―6)それでは何をしているか 

(111―7)制限と禁止 

(111―8)レベルに達していないとは何を意味するのか 

(111―9)望ましくない自己イメージ(追記) 

 

(111―1)はじめに 

 「ひきこもり」の人は、どこか独特の考え方をしているように、私には感じられることがあります。前項で示したような、あらゆることを「不可能」なことにしてしまう考え方もそうでした。 

 今回は、「ひきこもり」の人からよく耳にする言葉、「自分はまだそのレベルに達していない」ということを取り上げたいと思います。この表現には、バリエーションとして「今の所、できない」とか「まだ無理だ」といったものも含まれます。 

こうした表現は「~できない」という表現の変形なのだと私は捉えています。 

 

 

(111―2)その言葉通りに受け取れない 

 「自分はまだそのレベルに達していない」という言葉について、これは実際にある「ひきこもり」のクライアントがよく口にした言葉でありますが、他の幾人かの「ひきこもり」クライアントからも同内容の言葉を頻繁に耳にすることもあります。それらは例えば、「まだ、それはできない」という表現であったり、「それをする準備ができていない」という表現であったりするのです。そういう言葉も、「自分はまだそのレベルには達していない」という表現のバリエーションに過ぎません。 

 一見すると、彼らは自分の分をわきまえているかのように思われるのですが、聞いている私にはどこかその言葉通りのものを受け取らないのであります。「自分はまだまだだ」と謙虚に語っているようでありながら、どこか傲慢なものを私は受け取ることもあるのです。 

これもまた自己欺瞞のようなものではないかと、私は捉えています。このことについては後ほど、(111―6)で取り上げることにします。その前に、「レベル」ということについて少し考察してみます。 

 

 

(111―3)何かを代弁する表現 

 そもそも、何かをするのに必要な「レベル」というものが本当にあるのでしょうか。私には疑問に思えるのです。 

例えば、人と会うということを考えてみても、人と会う「レベル」にわれわれが達しているから、人と会うことができているのでしょうか。 

恐らく、そうではないでしょう。私たちはそのような「レベル」の存在を認識していないのではないでしょうか。人と会いたいと思うから、もしくは、人と会う必要があるから会おうとするのであって、私たちがその「レベル」に達しているから人と会うわけではないと言ってよいのではないでしょうか。 

 従って、人と会うということに関して、「自分はそのレベルに達していないからできない」という言葉は、その言葉そのものの意味としては捉えない方がよいようです。そういう言葉は、もっと別の何かを表現しているものだと思います。つまり、本当に伝えようとしていることの、いわば代わりの言葉ではないかと私には思われるのです。 

本当は何か別の事柄(それは恐れや不安といった感情ではないかと思います)を、そのまま述べることができないので、そういう表現をすることで恐れや不安に蓋をしているのではないかと私は思うのです。 

言い換えるなら、そういう言葉や表現の背後に、彼らを苦しめている何らかの不安や恐れがあるのではないかということになります。そして、彼らがある事柄をするということに対して不安や恐れがありながら、その不安や恐れをそのまま表現できないということですから、そうした感情は彼らには手におえないと感じられているのかもしれません。 

 

 

(111―4)「レベル」ということについて 

 「レベル」ということについてもう少し考えておきたいと思います。 

 私は、ここで私自身のあるエピソードを思い出します。それは、私が中学一年生の頃のことで、当時、私は陸上部で走っていました。練習はとてもきつかった上に、左手首を骨折して、三週間ほどのブランクを経験しました。復帰しても、練習にはとてもついていけず、同時期に入部した友達たちはみんな私よりもはるかに先を行っているように思われました。そのうち、私は部活に顔を出さなくなってしまいました。 

 その頃、同じ陸上部で、私と同じように練習についていけなくなっていた友達のO君という人がいました。O君も私も、自分たちが、練習において、みんなについていけてないことを自覚していました。つまり、私たちは、練習についていける「レベル」に達していないということが分かっていたのです。それで、O君と私とは、いつか復帰する時のために、一緒に練習をすることにしました。 

 振り返ってみても、おかしな話で、部活の練習についていくことができる「レベル」に達するために、部活の練習をサボって、自分たちで練習をしていたのですから。でも、当時はとても真剣に、みんなについていけてないことを悩んでいたものでした。 

 この自主トレは間もなく終了することになりました。ある時、陸上部の友達が私の家に来て、私を練習に誘ってくれたのです。私は恐る恐る練習に参加しました。中学一年の秋頃でした。久しぶりに練習に行った時の緊張感といったら、たまったものではありませんでした。みんなの視線が突き刺さるようで、「何しに来たんや」という態度をあからさまに示す先輩もいました。当然、練習にもついていくことができませんでした。でも、今度は止めずに続けました。個人的に、みんなから部活の一員として受け入れてもらえたと感じたのは、中学一年の終わり頃だったように記憶しています。 

 ちなみにO君の方はと言うと、彼は結局陸上部を退部し、文化系のクラブに入ったようでした。それはそれで構わないのです。私の方は復帰できたけれど、O君は違った方面へ進路変更できたのですから、彼もまた、成功したのでした。 

 私がこのエピソードから学んだことは、たとえみんなの「レベル」に達していなくても、練習の場に参加することの方が、遥かに重要であり、その方が結果的に早くみんなの「レベル」に達することができるということでした。 

 また、友達にも恵まれたということも強調しておきたいと思います。もし、彼らが誘ってくれなかったら、私は部活に戻る機会を失っていたでしょうし、いつまでも「レベル」に達していない自分を体験していたことでしょう。劣等感と敗北感を抱えたまま、中学時代を送っていたことでありましょう。 

私のこの体験から得たことをまとめておきます。「レベル」に達していないとか遅れているとかいう私の感覚は、みんなが先に行ってしまって、自分だけ取り残されてしまったという疎外感から生まれたものです。それで遅れを取り戻そうとしてO君と一緒に頑張るのですが、この努力は返って「レベル」に達していない自分たちを自覚することになってしまっていたように思います。私が復帰できたのは友人たちの協力が、幸運にも、得られたということも大きかったと思います。そして、「レベル」に達していないことははっきりしていましたが、先に行ってしまった人たちの中へ思い切って飛び込んだ方が、結果的に良かったのであり、遅れを取り戻すことに有益だったということです。 

 こうして考えてみると、「レベル」というものは非常に観念的な事柄であるようにも思います。私たちは自分の「レベル」というものを、本当には知り得ないかもしれないし、少なくとも、それを取り出して見てみるということのできない類の概念だと私は考えています。 

 

 

(111―5)傷つきと回避 

 例えば、試合を控えていて、今の「レベル」ではビリは確実というような状況を考えてみましょう。自分たちが勝てる「レベル」に達していなくて、確実にビリになることが分かっているからと言って、試合を回避するよりかは、実際にビリを経験する方がはるかに得るものが大きいものです。私が自分の体験から学んだのはそのことでした。 

 「ひきこもり」の人は、しばしば、ビリを体験することを、何か重大な、取り返しのつかない失敗であるかのように捉えることがあるようです。そうして、ビリになることによって「自己愛的な傷つき」を経験してしまうのだと思います。それはつまり、自分はけっこうできると思っていたのだけど、実際にやってみると、それが単なる思いすごしで、幻想であったということを痛いほど思い知らされるのです。現実の自分自身に嫌というほど向き合わされてしまうのです。そういう場面で、人は当然傷つきを経験するものです。 

しかし、私たちが何かをしていく場合、こういう傷つきは、むしろ避けられないことでありますし、時にはそれが望ましい場合だってあるものです。 

 このことを、単に「失敗を恐れている」と捉えるのは、必ずしも正確ではないと私は考えています。失敗に耐えられないのではなくて、「現実に失敗を体験してしまう自分」に耐えられないのだと思います。「失敗」そのものではなく、「失敗してしまう自分」が嫌になるのだと私は捉えております。 

しばしばこの時に直面するのは、失敗ではなくて、その人自身、あるいはその人自身の中にある何かだと思います。そうして自分自身を見てしまう時、自分自身がとても嫌に感じられてくるものです。このことは後でもう一度触れたいと思います。 

しかし、「現実に失敗を体験した」ということは、その現場に臨んだからこそ得られた体験であるはずです。少なくとも、「現実に失敗を体験した人」は、現場を前にして、回避しなかっただけの強さがあったということが言えるのではないでしょうか。 

 

 

(111―6)それでは何をしているのか 

 再び「まだそのレベルに達していない」という表現に戻りましょう。彼らは「そのレベルに達する」ために、何をしているのでしょうか。 

 あるクライアントに尋ねてみると、彼の答えは「何をしていいか分からない」でした。つまり、何もしていないのです。何か具体的に動き始めることもせず、「レベルに達していない」自分を嘆いているのです。「ひきこもり」体験者の中では、そういう人が多いように個人的には思うのです。 

 しかし、一方で、何もしないで、いつか自分がその「レベルに達する」ということを信じているような節も見られるのです。それはあたかも、今はまだ「そのレベルに達していない」けれども、放っておいても自然に自分が「そのレベルに達する」ことができ、かつ、自分にはそういうことが自然に起きるはずだと素朴に信じているようなのです。先ほど、彼らが謙虚に述べておりながら、彼らから傲慢なものを私は感じると述べましたが、それはまさにここに由来するものです。謙虚に語っていながら、どこかそういう思い上がりがあるのです。しかし本人はそういう思い上がりはしていませんという態度をしているのです。だから、彼らが自己欺瞞に陥っているように、私には感じられるのです。 

 私の中学時代のエピソードで言えば、私とO君とで自主トレを始めた時、自分たちのやり方でみんなについていけるようになるなどと考えていたわけなのですが、それこそ思い上がりだったわけです。実際に練習に出ている人たちは、私たちの自主トレの二倍も三倍も練習していたのですから、いくら私たちが自主トレを重ねても、彼らに追いつくはずはなかったのでした。でも、自分たちにはそれができると信じていたのですから、思い上がりも甚だしいと言わざるを得ません。 

 

 

(111―7)制限と禁止 

 前項での「~できない」と同様、「そのレベルに達していない」も、彼らが自分の行動に制限を加えてしまっているということには変わりがありません。同じように、自分自身に何かをすることが禁じられているのです。 

 そして、この思考は、「そのレベルに達していない」から、それをやっても自分が失敗するのは目に見えているということになり、だからやりたくないのだとか、やるだけ無駄であるとか、やらない方がましということにつながるようです。だから、失敗をすることが火を見るよりも明らかだから、確実に成功するレベルに自分が到達するまで、自分は何もしないで待っているという思考に陥っているわけです。しかし、この思考はいささか非現実的なものだと思います。 

 私が思うに、彼らが不幸なのは、「レベルに達していない」ことでも、そのために動き始めないことでもありません。失敗した時に傷つくこと、また同じように体験する友人もなく、その体験を共有できる仲間を持たないことにあります。先述のように、「自分はもっとできるはずだ」といった自己像は粉砕されるのです。その粉砕に際して、彼は傷つくのです。しかし、ひきこもっている彼には、ひきこもっているが故に、かえってその傷つきをどうすることもできずに、そこに留まってしまうのであります。なぜなら、そこにはそれを共有できるような人がいない上に、その傷つきを癒していく場面が乏しいからです。 

20年近くひきこもっている「ベテラン」のクライアントはいまだに中学二年生の時に経験した傷つきを克服できずにいたのでした。その傷つき体験そのものは、彼に特有なエピソードというわけでもなく、他の多くの中学生が体験する類のものです。彼が特別に不遇だったというわけではないのです。ただ、彼がそれを克服するには、彼が傷つきやすいといった彼の傾向があるとは言え、彼はあまりに孤立しており、その体験に付き合ってくれる他者を有していなかったのでした。私にはそのように思われてなりませんでした。 

 

 

(111―8)「レベル」に達していないとは何を意味しているのか 

 「ひきこもり」体験者と面接していると、分かるような分からないような表現に出くわすことが時々あります。「自分はまだそのレベルに達していない」という表現もその一つです。その時は、何となく分かったような感じがするのですが、改めて考えてみますと「レベルにまだ達していない」とはどういうことなのかが私には分かっていないのです。 

 再び、人と会うということを例にしましょう。ある「ひきこもり」体験者が、「自分はまだ人と会うレベルには達していない」から、人とは会えないのだと述べたとしましょう。この表現は、受け手である私にとっては違和感を覚えるものです。なぜなら、私には彼の言う「レベル」が何なのかが掴めていないからです。一方で、それが何となくですが、彼が人と会うことができないことのまっとうな理由のようにも聞こえてくるのです。私は、自分でも不思議な現象だなと後で思い至りました。 

 彼が本当に言いたかったのは、「人と会うのが怖い」ということだったはずです。そして、他者と自分との間には相当な開きがあると体験されていたのでしょう。その開きというか、差のことを「レベル」と表しているのだろうと思います。でも、それなら「自分は他のみんなよりも劣っているのではないか、遅れているのではないかと心配で、それで人と会うのが怖いのです」と表現してもよさそうなものです。ですが、そのような直接的な表現をされないのです。 

 分かるような、分からないような表現とは、このようにして出来上がるのだと私は思います。彼が何かを表現している、あるいは表現したいことがあるというのは確かです。ただ、それをストレートに、分かりやすく表現することに何か困難があるのだろうということです。この抵抗感が、表現を一部歪めることになるのです。しかし、それはあくまでも受け手である私の立場からの見解です。 

 彼にしてみれば、むしろこの表現の方が適しているように感じられているはずです。なぜなら、「人が怖い」と述べることは、弱い自分を見ることになるからかもしれません。自分が人を恐れ、ビクビクしながら人を避けていると思われることは、彼には耐えられないことだったのでしょう。そこで、「人が怖いのではないのだ、自分がそのレベルに達していないだけだ」という形にして表現せざるを得なくなっているのでしょう。一種の合理化です。それは「レベル」に達していないという、いかにも不可抗力でこうなっているのだという形にして表現していることになるのです。従って、彼にとっては、この言い方がとても安全であり、彼の何かを脅かさない表現スタイルだったのでしょう。 

 

 

(111―9)望ましくない自己イメージ(付記) 

 以上が最初に掲載された文章であります。ここからは追記になります。 

 クライアントの中には私の書いた文章を読んでくださっている方もおられます。時々、このテーマは分かりにくかったという指摘を受けるのですが、本項でも2人からそのような指摘を受けたことがあります。 

 これを書いた当時、「レベルに達していない」という表現から離れてしまわないようにと気を付けていました。これはある事情のために、それより深入りしなかったのです。この追記では、その時書けなかった内容を簡潔に記しておきます。 

 「自分はまだそのレベルに達していない」とひきこもり経験者が言う時、本当はそこに望ましくない自分を体験してしまうのだと思います。例えば「人と会うレベルに達していない」と言う時、人と会うことだけではなく、人と会う時に体験する自分を望ましくないと体験しているように私には感じられるのです。そして、望ましくない自分を体験することが、そのまま望ましくない自分を生きるようになってしまうように思われるので、なんとかその事態を防ぎたいと思うのでしょう、もちろん、こうした過程は無意識的なものであり、本人が意図してそうしているという意味ではありません。 

 望ましくない自分になってしまう、あるいは望ましくない自分のイメージに一致してしまうという体験は、彼らにとっては破滅的な体験となるのだと思います。この自己破滅感に陥らないための、彼らなりのやり方であり、これまでの生の中で身に付けた一つの技術なのだと思うのです。 

 しかしながら、自分が人と会うレベルに達していないと彼らが言う時、一方では望ましい自分の像も描かれているのです。ただ、望ましくないイメージの方が自分に近いと感じられているのだと思います。つまり、望ましくない自己像の方が容易に実現してしまいそうになっているのだと思います。この格差と言いますか、望ましい自己と望ましくない自己との間にある亀裂が「レベル」という言葉で表現されているのではないかと、そのように私は思うのです。 

 従って、彼らがそのような表現をするときには、しばしば、彼の中の望ましくない何かと関わっているように思われるのです。 

 

 

(文責:寺戸順司高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー