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<テーマ124>「神経症」的な生き方(2)~完全主義
<テーマ124> 「神経症」的な生き方(2)~完全主義
(124―1)完全主義
前項において、人が「神経症」的になっていくほど、その人の思考や行動、感情に融通性や柔軟性が欠けていくということを述べました。
ある人に融通性や柔軟性が欠けていくということは、その人は完全主義に陥らざるを得ないということにつながるのです。融通性や柔軟性を失っていった一つの帰結が完全主義と呼ばれる現象であるということです。
そして、完全主義は「神経症」的な人においては、典型的に見られる現象なのであります。
本項では、この完全主義ということを中心に述べることにします。
私の個人的な見解では、完全主義の傾向というものは誰でも多かれ少なかれ有しているものです。特に日本人はその傾向が強い国民ではないかという印象を受けることが多いのです。
あまりそれに賛成できないと思われる方もおられるでしょう。我々はそんなに完全主義的かと、反論されたくなりかもしれません。それは完全主義というものが微妙な形で現れることがあるために、しばしば完全主義と見做されることなくそれをしているといった行為があるためです。
従って、「健常者」にも完全主義の傾向はあると私は捉えているのです。ただ、「神経症的」な人の完全主義と違う点は、不完全さに対する態度にあると私は捉えています。
より「健常」な人は、完全主義の傾向を有していながらも、不完全さを許容できるものです。「神経症」的な人は、この不完全さを許容する度合いがかなり低いという印象を私は受けるのです。
もう少し言い換えれば、「健常」な人は、完全主義でありながら、不完全さを許容できるという点で、完全主義ではないのです。でも、「神経症」的な人は不完全さを見てしまう時にも完全主義的に見てしまうのです。
(124―2)完全主義は諸悪の根源
論理療法の創始者であるアルバート・エリスは「完全主義は諸悪の根源である」と述べておりますが、本当にその通りであると私も思います。
なぜそうなのか、私なりの見解を述べます。極端な完全主義者というような人を想像してみれば、このことは容易に分かるものです。
完全主義の人というのは、端的に言えば、何一つとして「成功」しない人のことであります。ほんの些細な行為でさえ、彼の完全主義の基準に照らせば、必ず「失敗」を含んでいるのです。従って、彼は何一つとして満足な結果を体験することができないという人なのです。常に「失敗」することが運命づけられているような人なのです。従って、完全主義の人が自分のすることに対して、満足するということはあり得ないということになり、常に自分自身に不満を残してしまうのです。
何一つとして、彼の基準に見合った成果が得られないのでありますから、彼は常に不全感に苛まれることになります。何をしても不十分なのです。また、それは許容できる範囲がまったくないということでもありますので、恐らく、周囲の出来事やそういう自分自身に対しても我慢ができないことが多くなることでしょう。
完全主義が諸悪の根源であるというのは、そのような傾向のためです。極端な完全主義者をここでは想定していますが、彼は何一つとして成功を体験することはなく、何一つとして満足できることがなく、自分自身や周囲の人に対しても自分の完全主義を適用してしまうので、自他ともに窮屈な世界で生きざるを得なくなるからです。
(124―3)中間を飛ばす
人が完全主義に陥ると、しばしば物事の中間段階を飛ばしてしまうのであります。私は仕事柄、そういう人に会うことが多いのです。その人自身はそれを完全主義であるとは気づいておられないのです。だから、まずこの点を取り上げたいと思うのです。
変化変容、あるいは物事に上達するとか何か技術を習得するというようなことでも、そこには順序があり、時にはスランプもあり、時間がかかるものです。
完全主義に陥る人ほど、そういう中間にある段階を容認することが難しいようです。
だから完全主義な人は、途上の段階にいることが耐えられないのです。時には、一気にゴールに辿り着けるというように思いこんだり、また、即座にゴールに辿り着けないからダメだという評価をしてしまうのです。
また、自分や他者、世界がすぐに変わらないと言って不満を漏らすのです。彼らの不満の内容がどのようなものであれ、私はこれは完全主義であると捉えているのです。
中間を飛ばすということは、全か無かという思考に通じるものです。素人か玄人か、初心者か熟練者かのどちらかしかないということになっているからです。その途上にある段階というものは、この思考では排斥されてしまっているのです。
一回カウンセリングを受けて、あるいは一日治療をやってみて、それで何も変わらなかったから止めたとかいう人とお会いすることも多いのですが。そういう人たちを見ていて思うのは、やはり完全主義的な生き方をしているということです。カウンセラーや医師が何をしたかということよりも、その人の完全主義的傾向が治療の妨げになっていると私はよく実感するのです。段階を踏むということが、彼らには受け入れがたいのです。
こんな例があります。それは不登校の子供を抱える母親でしたが、私はある提案をその人にしたのです。母親は、じゃあ、それをやってみますと言って、その日は帰られました。翌週、訪れた時、「先生、あれはやっぱりダメでした」とおっしゃるのです。私は詳しく話してくれるよう促しました。この母親の話では、前回のカウンセリングから帰宅して、私が提案したことを一回試みたのです。でも、何も変わらなかったと言って、それで止めてしまわれたのです。
私の提案した事柄が変化をもたらすものであったかどうかはさておくとしても、この母親に完全主義の傾向を見出すことができるのです。一回試みて、それで一飛びに結果につながらなければ、もうそれには意味がないと感じられるようです。完全主義に陥ると、そのような思考法になっていくものだと思います。
(124―4)変化を受け入れられない
完全主義者は、その完全主義のために、いかなる変化をも受け入れ難くなることがあります。私の考えでは、変化していく事柄というのは、完全主義の人にとっては最もガマンがならないことなのではないかということです。
ある人は自分が買った物は何でも新品の状態で維持したいと考えていました。道具は使用していると必ず劣化してくるものですが、彼はそのような変化を一切認めたくないのでした。従って、彼は品物が使用していくうちに古びていくことも劣化していくことも(そういうことが生じて当然なのですが)、それが苦痛になり、耐えることができなくなるのです。
もし、彼が個人的に物を大切にしたいと考えてそうしている限りでは、まだ、その苦しみは当人の中だけで納まっていたでしょう。しかし、彼はそれを周囲の人に対しても強いるのです。例えばカーペットが痛むからカーペットの上を歩くなと、彼は家族に強要したりするのです。こうして、彼の完全主義は周囲の人を巻き込んでしまっていたのでした。
元々は彼個人の内面的な問題であったものが、私がお会いした時には、こうして家族全体の問題になってしまっていたのでした。
完全主義というものは、この彼のように、不可能なことを敢えてしようとし続けることであり、不毛な努力を重ねていくことになるものです。
例えば車を例にしましょう。彼は車を運転します。使用すればそれだけ消耗されてしまうのです。でも、彼は未使用の状態でそれを維持したいのです。未使用の状態でずっと使用し続けるということが、いかに不可能なことであるか。それは両立し得ないことなのです。
彼は魅力的な男性でしたが、ずっと独身を通していました。何度か彼に結婚を申し込んだ女性もおられたようです。当然、彼はその申し出を断り続けたのです。その女性が処女でないということが彼には耐えられないことだったのです。一人一人のその女性がどのような人であるかということは考慮されず、ただ処女であるか否かだけで、彼は女性たちを振り分けてきたのです。これもまた完全主義なのです。(注1)
(124―5)完全主義は自己分裂を引き起こす
また、完全主義に陥るということは、その人の中で容認できる部分と容認できない部分とを分割してしまう傾向を生み出すものです。容認できない事柄はすべて切り離さなくてはならなくなります。しかし、自分の中で切り離された部分は、その人にとっては「あってはならないもの」となり、「秘密」となり、「タブー」となり、「コンプレックス」になっていくわけです。
そして、それらは他者に対して隠されているというだけではなくて、その人自身に対しても隠されていることが多いのです。
当人自身にも見えなかったりするのですが、それらが存在しているということは、別の形でその人に現れるので、私たちはそういう隠された物の存在を知ることができるのです。
それらは、その人に罪悪感や恐怖感、劣等感として体験され、そういう形でその人を責めさいなむことになるのです。
こういう分割を私たちは多少なりともしているものです。しかし、完全主義的な人ほど、これを劇的な形で、大仰にしてしまうものなのです。
例えば、部屋を完璧に掃除しなければいられないというような人を考えてみましょう。彼は隅々まで念入りに掃除します。一日の大半はその作業で費やされています。部屋の中はピカピカです。
しかし、彼が窓のレールに微かの埃を発見してしまったとしたらどうなるでしょう。この埃は彼の中にある種の「よくないもの」として君臨することになります。彼はこの埃を発見するべきではなかったのです。この埃のために、彼は自分自身がとても不完全に見えてしまうのです。これを発見してしまった自分を許すこともできないのです。
こうした感情は彼には強い恐怖感や不安感として襲いかかってくるのです。誰かが部屋に来て、「部屋がきれいだ」と言ってくれたとしても、彼の心は落ち着かないでしょう。そればかりか、彼は自分の不完全さを隠さなければならないと感じるでしょう。この時、窓のレールに残った埃は、彼の中で触れてはならない「タブー」のような存在になってしまい、その程度のことでさえ、彼は多大に苦しまなければならなくなるのです。
友人が訪れて、部屋のきれいさを評価しても、彼は窓枠の埃に支配されてしまって、せっかく来てくれた友人を追い返したり、外に連れ出したりするかもしれません。彼にとって、容認できない部分は、それが些細なことであれ、彼の全人格を占めてしまうのです。彼の完全主義傾向がそれにさらに拍車をかけているのです。
こうして、彼は、彼を脅かす些細な事柄であっても、大きく脅えなければならない現象として体験されてしまうのです。彼が人から言われて傷つく言葉というのがありまして、それは「それってそんなに大事なことなの?」という一言でした。周囲の人には些細なことにしか見えないのですが、彼からすると、その些細なことが彼に大打撃を及ぼすのでした。だからそれを否定されるような言葉を周囲の人から聞いてしまうことに、彼は耐えられないのでした。
(124―6)失敗は許されない
ある人が完全主義であるかどうかということは、あるいはどれくらい完全主義であるかということは、その人の使う言葉に注目すればよく分かるものです。大抵の場合、完全主義傾向が強いほど、「~しなくてはいけない」とか「~すべきだ」とかいった表現が多く見られるものです。「絶対~だ」とか「~はだめだ」とかいった表現も同様です。そういう表現は自分自身や他者に対して用いる傾向が強くなるのです。
クライアントがよく表現されることの一つに「失敗は許されない」というものがあります。人間の活動の中には「失敗は許されない」というものがまったくないわけではありません。でも、そういうのはかなり特殊な活動ではないかと私は思います。私たちの活動の大部分は、「失敗はしない方がいい」とか「失敗しないにこしたことはない」といった程度のものではないでしょうか。
そしてその人が何か小さな失敗をするとします。大した失敗ではないことです。せいぜい皿を割ったとか、待ち合わせに少し遅れたとかその程度のものだとします。そういう失敗をしたからといって、何もその人の命まで取ろうなんて人はいないだろうと私は思うのですが、いかがなものでしょうか。
でも、完全主義傾向が強い人にとってみれば、その程度の失敗でさえ、致命的に体験されていることも多いものです。そしてそういう失敗をしてしまった自分が許せないだけでなく、それだけで人の評価やこれまでその人が築いてきたものが一瞬にして崩壊してしまうように体験されていることもあるのです。
ここまで述べてきたことも含めて、完全主義的な人が幸福に生きることがいかに難しいかということが見えてきたら私としても嬉しい限りです。
(124―7)根底にある不安
人が完全主義に陥るのは、その人の抱えている不安によるものです。大部分の完全主義は自分の不安に対処するために発展させてきた傾向であると言えるのです。
本項の初めに完全主義は融通性や柔軟性の喪失の一つの帰結であると述べました。その根底にはやはり不安があるのです。
融通性や柔軟性が欠ける人にとって、もっとも困難な場面は自由にしていいという場面ではないかと思います。自由度が高いほど、その人の抱える不安が高まるのです。それに対して、その人は一つの決まりきったやり方で対処しなければいられなくなるのです。
何事も決まりきった一つの枠に収めることは、それが変容したりすることに対する恐怖感を鎮めてくれるものです。「あれもあり、これもあり、そういうのもあり」では不安で、受け入れられないとすれば、「こうでなければならない」という枠に従わせる方が安全だと感じられるのです。
完全主義は不安に対処する一つの方法だと言うことができるのですが、それによってその人はほんのわずかの満足さえ得られないのです。極端な完全主義においては、満足することさえないかもしれません。そういうやり方で不安に対処できていたとしても、その為に犠牲になる事柄も多大なものなのです。
自分の完全主義傾向に気づいて、この完全主義を止めようと思われる人もあるのですが、皮肉なことに、それをまた完全主義的にやられるのです。完全主義的に完全主義から抜け出ようとされるのです。
従って、完全主義から解放されたいと願うのであれば、完全主義を止めることではなく、その完全主義を生み出している不安に対処しなければならないということが言えるのです。
しかし、完全主義の人は、この不安に対しても完全主義的に覆いをかけているものなのです。こうして、しばしば、その人は自分の完全主義的傾向に手を付けずに生きているのです。
(124―8)完全主義の悲劇
物事も他人も、また自分自身でさえ、人は完全にコントロールすることはできないものです。いかなるものも完全には動かせないし、思い通りにいかないものです。完全ではない対象に対し、完全主義的な人は完全を求め、それを達成しようとします。もともと不完全にしかできない事柄を完全にしようとするということは、必ず失敗するということが決定づけられているということです。
完全主義的な人は、完全でない自分を発見した時には、自分を完全主義的に攻撃し、自罰したりします。それは自分が許せないという感情であります。
その人にとっては許せない事柄で人生が満ち溢れていることでしょう。当然、自他に対して非常に厳しい考え方を発展させることでしょう。完全主義的に物事を追及していって、やがてはその人は疲弊し尽してしまうでしょう。
極端な完全主義の人は、こうして自ら破綻していくのです。自分の一生は挫折と失敗の連続だったと、彼はこれまでの人生を振り返って述べることになるでしょう。これは悲劇以外の何物でもないと、私には思われるのですが、これをお読みのあなたはどのようにお考えになられるでしょうか。
(注1)
何でも新品の状態で使用したいというこの男性の例ですが、私はここでは単純に完全主義の傾向として述べました。実際には、この問題は同一性と同一性が成立する基盤に関する問題を孕んでいるものであり、もっと複雑な内容を持っているということをお断りしておきます。
例えば、私が今日買った車があるとします。毎日これに乗るとします。一年後にはかなり傷んでいる部分も生じているでしょう。しかし、私はこれが一年前に買った車と「同じ」車であるということが分かっており、私の中で一年前の新車と今の使い古した車とが同一であるという関係が成立しているのが分かります。これには、この関係が成立しているということと、この関係が成立している場があるという二つが前提条件として考えられるのです。私の受けた印象では、この男性はこの二つの条件を生み出す部分に困難があるようでした。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)