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<テーマ125>「書き手」は私に勝てない

<テーマ125> 「書き手」は私に勝てない 

 

(125―1)本項の忠告 

 本項を読まれる方にまずは注意しておくことがあります。それは、少なくとも前半において、私はかなり辛辣に物事を述べるだろうということです。そして、私は幾分悪意を込めて書くだろうということです。それを意識的にするつもりなのです。ですから、読んで不快に思われそうだと感じられる方は、ここで読むのを止めてくださって結構です。そして、もし、読んでみて不快感を体験したとしても、私に責任を追及しないでいただきたいのです。少なくとも、私はここで忠告をしておきました。後は、読まれる方の自己責任で読んでいただきたいのです。 

 

(125―2)私に関してはどんどん書き込みをしてもいい 

 最近は忙しいのでチェックしていないのですが、私に対する書き込みはやはり増え続けているだろうと思います。それで構わないのです。書き手はどんどん書けばいいのです。書き込むことを私はもっと推奨します。もっともっとありったけの悪口を書き込めばいいのです。なぜなら、最終的に勝つのは私だからです。今回はそれを証明してみましょう。 

 私はこのサイトの中で、そういう私に対する書き込みを止めて欲しいと頼んだことはありません。書くなら書いて下さって結構ですと言っているのです。そして、私がそれを言い続けている限り勝つのは私ということになるのです。 

 次に簡単なやりとりを示します。実際にはこういうやりとりはないのですが、分かりやすくするために記します。 

 ある「書き手」が「寺戸はクズだ」と書いたとします。私はもっと書いてもいいと言っているわけですから、私はこう返事を送るでしょう。「私のことをクズだと思われるのですね。でも、もっと書きたいことがあるのではありませんか。どうです、もっと書いてみては」と。 

 すると、今度は「寺戸なんか生きる価値がない」と「書き手」が書く。私は「なるほど、私はクズで生きる価値もない人間だということですな。それだけ思うということは、もっと言いたいことがあるのでしょう。もっと書きませんか」と書く。 

 すると「寺戸はサイテー野郎だ」と書くとします。「私はクズで生きる価値もないサイテー野郎だということですな。もっと書いてもいいですよ」と私が答える。 

 今度は「寺戸はカスだ」とでも書くでしょう。「私はクズで生きる価値もないサイテー野郎のカスなのですな。もっと書いてもいいですよ」と私。 

 次には、「寺戸はアホだ」と書く。これが延々と続いて、最終的に「なるほど、私はクズで生きる価値もないサイテー野郎のカスでアホでバカで気色悪い変態で狂人でさっさと死んじまえという人間なのですな」ということになる。その後でやはり私は「もっと書いてもいいですよ」と答えるでしょう。 

 お分かりいただけたでしょうか。「書き手」が何かを書き込む、私がもっと書き込むよう推奨する、「書き手」はさらに書き込む、これを繰り返しているのですが、これを繰り返すということがどういうことであるか、理解できたかと思います。 

 つまり、「書き手」が書き込めば書き込むほど、「書き手」は私の言いなりになっているということです。私の言いなりになるということは、取りも直さず、私の支配下に「書き手」が置かれているということを意味するのです。 

 

(125―3)「書き手」はこのジレンマを抜け出せるか 

 「書き手」がこの状況から抜け出そうとすれば、つまりもっと書き込みなさいという私に抵抗しようとするならば、「書き手」は書き込むことを止めるしかないのです。しかし、それもまた私の望む所なのです。「書き手」は何を書いてもいいのですが、私は私の知らない所でゴチャゴチャ言われるのを好まないのです。だから、「書き手」が書き込むのを止めたとすれば、それもやはり私の望む通りになったということなのです。 

 悪口を書き込むこともできず、さりとて書き込みを止めることもできないのであれば、そこから抜け出す一つの方法は、「書き手」が思ってもいないことを書き込むという手段です。 

 つまり、本当は私を罵りたいのだけど、私の言いなりにならないためには、私を賞賛する書き込みをしなければならなくなるということです。しかし、それもまた私にとっては望ましいことなのです。なぜなら、「書き手」は私のいい評判を流してくれるからです。その分、「書き手」は心にも思っていないことを書き込まなければならないのだから、そうとう苦しい思いをされるでしょう。 

 そこで、こんなカウンセラーとはさっさと縁を切るという「書き手」も生まれるでしょう。しかし、私としては、縁が切れてくれたらそれはそれで願ったりのことなのです。後々までゴチャゴチャ書き込まれるよりかは、縁が切れてくれた方が私はラクになるからです。だから、ここでも、やはり私にとっては望ましい結果に至るのです。 

 書き込みを続けても、書き込みを止めても、ウソを書いても、縁を切っても、この関係では私が優位なのです。この関係から抜け出すために、怒りに駆られた「書き手」は私を刺しに来るかもしれません。それもまた願ったりなのです。私はその時、ようやくその「書き手」と対峙することができるからです。そして、私を刺し殺したとすれば、「書き手」は世間に知られ、私とその「書き手」との間で、どういうことが生じていたのかが白日の下に曝されるでしょう。その時、世間は私か「書き手」か、どちらが正しかったかを論じるでしょう。どちらが正しかったのかが判明するということは、やはり私の望んでいることなのです。私は殺されているので、その結果を私自身が知るということはないにしても、世間において白黒はっきりしてもらえるのであれば、やはり、私にとって本望なのです。 

 このジレンマから抜け出すために、私の周囲の人、私の愛する人を攻撃する「書き手」も現れるかもしれません。それもまた、私にとっては願ってもないことなのです。私は攻撃されたその人たちのために堂々と戦うことができるからです。もちろん、その際には誰が書いたものであるかを調べるでしょうし、警察に必要な情報を提供するかもしれません。そうして一騎打ちできるのであれば、それはそれで私にとっては望ましいことなのです。影でこそこそと書き込まれるよりかは、対決してくれる方がよほどましだと私は考えているのです。それでさっさとこの関係を清算できるからです。 

 書き込むことを私が推奨し続ける限り、「書き手」は書き込みをしても敗北し、止めても敗北し、本心とは裏腹のことを書いても敗北し、私と縁を切っても敗北し、私を刺し殺しても敗北し、私以外の人を攻撃しても敗北するのです。「書き手」が書き込んだ時点で、この関係が成立しているのです。言い換えれば、「書き手」が書き込んだ時点で、「書き手」の敗北が決定しているのです。「書き手」は自らそういう立場に身を置いてしまうのです。 

 私はいくつものシチュエーションを考えてみました。私の考えた範囲では、「書き手」が勝利を収める手段はありませんでした。しかし、一つだけ、「書き手」が有利になる手段があるのです。 

あくまで有利となるということで、「書き手」は部分的にしか勝利を収めないし、そのために払う犠牲も並々なものではないのですが、そういう手段が一つだけあるのです。 

「書き手」がその手段を講じても、私が単に不快になるというだけで、私の側にそれほどの損失があるわけではないのです。でも、そういう手段が一つだけあるのです。それが何なのかということは、明示しません。せいぜい、このダブルバインド状況を抜け出す手段を銘々で考えてみられたらよろしいでしょう。 

 

(125―4)何が望ましいのか 

 もっともいいことは、誰かの批判中傷の書き込みをするという時点で、このような拘束状況に置かれてしまうということを覚悟されることです。自ら雁字搦めの関係に飛び込むことをしているということを自覚されることなのです。 

 これは書き込みに関したことだけに限りません。人間関係にはこういうことが生じるものなのです。相手に対して中傷の書き込みをしたり、脅迫状を送りつけたりする時点で、相手に主導権を持たせてしまっているのです。相手を有利にしているのです。 

 相手に脅迫状を送りつけて、「ざまあみろ」などと思っていても、相手がどう出るかによって、送り主は抜き差しならない状況に追い込まれることになりかねないのです。そういう機会をみすみす相手に差し出しているのです。だから後先のことを考えずに、書き込んだり、脅迫状を送りつけたりする人は、知恵のない生き方を送ってしまっているものです。 

前にも書きましたが、書き込まれた側は「書き手」のことをよく覚えているものです。もし、書き込まれた側がたいへんな知能犯であれば、恐らく、「書き手」は一生それで苦しめられることになるかもしれません。 

 だから、批判中傷の書き込みなど、初めからしない方がいいのです。それを一時の感情に任せて発散して、二進も三進もいかなくなるより、それを内に抱えることができることの方が、はるかに望ましいことなのです。 

 

(125―5)「攻撃は最大の打撃である」 

「攻撃は最大の防御である」というのは、ルールのある競技の中でのみ通用する話で、現実の世界、現実の人間関係では「攻撃は最大の打撃である」と私は捉えています。相手を攻撃すると、相手は攻撃者よりも有利な立場を得ることになるからです。 

 四十年生きていると、その間にはいろんな人と出会いました。その中に、この人はケンカが上手だなと思える人が一人いました。彼のいろんな武勇伝を聴いていると、惚れ惚れするくらいです。そして、幸運なことに、私は一度だけ彼がケンカするところに居合わせたことがあるのです。 

 若いチンピラ風情の男が彼にイチャモンをつけてきたのです。彼はその男の言い分を聞こうとしていました。しかし、彼がこの相手から引き下がるのでもなく、むしろ、相手を引きつけておこうとされているのが私には分かりました。この相手の男は、当然と言えば当然なのですが、感情を制御することが不得手な感じの人でした。彼が落ち着いた対応をしていると、業を煮やしたのか、だんだん相手の語調が荒くなってきます。そして、自ら墓穴を掘るのです。彼は相手の言葉尻を捕まえて反撃し始めたのです。彼は自分が被害者の立場であるということが確定されるまで待っていたようです。そして、彼が反撃すると、相手はもはや言う言葉がなくなってしまうのです。最初の勢いはどこへやらという感じで、相手はその場を取り繕って、そそくさと逃げて行ったのでした。 

 私はその時に感じたのです。衝動的に行動する人、衝動を抑えられずに発散させてしまう人は、こういう目に遭うものだなと。 

 「雉も泣かずば撃たれまい」という諺がありますが、まさにその通りだと思います。このチンピラも彼にイチャモンをつけていなければ、そもそもの初めからそういうことをしていなければ、不利な立場に追いやられることもなかったでしょうに。 

 それだけに私は思うのです。衝動をコントロールできない人は、常に敗北の憂き目を見ると。もし、そういう人で敗北を経験したことがない人がいるとすれば、それはケンカを吹っかけた相手が反撃しなかったからだろうと私は思います。反撃されなかったから助かっていただけの話で、実際はその都度、ケンカを吹っかけられた側が優位であったはずであると私は思うのです。 

 

(125―6)考えること 

 私たちは知恵を身に付けなければならないと、私は信じています。後先考えずに感情のままに行動する人は、かならず敗北するものです。損な生き方をしてしまうものです。 

 「書き手」は衝動に任せて書き込むことが多いだろうと私は推測しています。そして、そういう書き込みをする人は自分の衝動をコントロールすることに困難を感じているだろうと憶測します。 

 しかし、衝動に任せて中傷の書き込みをしたとしても、本項で述べてきたように、それは自縄自縛に身を委ねることになるのです。「書き手」は、もしかすれば、「書いてやった、ざまあみろ、清々した」などと感じているかもしれませんが、それこそ後のことを考えていないことの証明なのです。「書き手」が私のことを書き込んだ時点で、「書き手」は私の支配下に置かれてしまい、その関係から抜け出すことができなくなるのです。抜け出すためには、私に勝利を譲らなければならなくなるという、恐らく、「書き手」にとってもっとも屈辱的な結末を経なければならなくなるのです。 

 私は自分が何も特別なことを述べているとは思いません。ああいう書き込みをしない人の中には、こういうことが分かっているという人もきっとたくさんおられるでしょう。自ら困難な結末を迎えるよりは、衝動を自分の中で処理することを学ばれた経験がある人もたくさんおられることでしょう。 

 もし、これを読んでいるあなたが私に対して書き込もうかと考えるとします。それが中傷の書き込みであれ、賞賛の書き込みであれ、あなたが避けることができないことは、それをした時点で、私の支配下に置かれてしまうということです。いくらあなたが書き込みを重ねても、この関係を変えることはあなたには困難なのです。私に対する書き込みだけに限らず、他の人に対して書き込む場合ですら、そういう関係が成立してしまうこともあり得るのです。あなたがしなければならないことは、私や他の人に対して書き込むことではなく、書き込みをする前によく考えることなのです。 

 もし、誰かを攻撃したくなったとしたら、攻撃する前によく考えてみることなのです。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー