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<テーマ126>怒りの処理(3)~昇華

<テーマ126> 怒りの処理(3)~昇華 

 

(126―1)昇華的に処理すること 

 怒りの感情を取り扱うやり方で、次に述べるのはそれを昇華する、乃至は昇華的に処理するということであります。そして、このやり方がもっとも健全で、安全で、望ましいものであると私は捉えております。 

 例えば、あなたが誰かを殺したいほど憎んでいるとします。本当に殺してしまえば、爆発するやり方と大差がないし、その感情を抑圧してもあなたは苦しい生き方を強いられてしまうでしょう。そこで、もし、あなたがその人をどうやって殺そうかと考えるとします。どのような手段を講じようか、毒殺がいいか、絞殺がいいか、刺殺がいいか。どのやり方を採るにしても、いかにして怪しまれないように凶器を調達しようか。どの時間帯を狙おうか。犯行時刻の自分のアリバイをどのように作ろうか。警察の尋問に対して、どのように答えるべきか、不自然に見えないためにどんな工夫をしようか。いかにして証拠を隠滅しようか。共犯者を持つか単独犯でいくか。そしていきなり殺すか、それとも殺人の予告状を送ろうかなどと考えるとします。私は推理小説というのはこうして生まれるのだろうと考えています。あなたがそれを推理小説にしたとすれば、それはあなたの憎悪を昇華したということになるのです。 

 前項で会社のゴミ捨て場で怒りを発散する人の例を挙げました。ただ発散して暴れるだけでなく、散乱しているゴミを結果的に彼がきちんと片づけることになっていたのであります。他の人たちの役にも立っていたのです。だから、彼のこのやり方は昇華的に自身の怒りを処理されていると言えるわけです。 

 

(126―2)昇華とは 

 昇華というのは、自分でも受け入れ難い感情を、社会的にも受け入れられるような形に変換することだとお考えになられていいかと思いますが、それだけでなく、それが人の迷惑にならず、人のために有益なものになっているということも昇華であると私は捉えております。 

 昇華は大人にも子供にも見られるものです。ただし、子供は子供のやり方で昇華をするものです。そして、昇華はその人が自ら見出していかなければならないものであると私は捉えております。だから、あなたに対して、それはこのように昇華するといいですよと私には言えないのです。仮にそういうことを言って、あなたがその通りにやったとしても、それは単に私に服従しているだけで、この服従は新たな敵意を生み出してしまうものなのです。だから、昇華することがいくら望ましいと言っても、あなたが自分のやり方を見出せるように、私は手伝いたいのです。 

実際、何が昇華であるかという、昇華の種類は数えきれないほどあるのです。昇華の例としてリストを挙げてもキリがない上に、そういうリストは役に立たないものです。何よりも昇華は個人的な事柄なのです。 

 個人的な事柄であるというのは、それが主観的に体験されているからです。もし、ある行為が当人にとって昇華であるとするならば、その行為は当人に対して浄化をもたらしているでしょう。よりカタルシス的に体験されていることでしょう。そして、当人はその行為において、より自身の創造性を発揮しているでしょう。私はそのように捉えておりますし、それ以上に説明することは、私には困難なのです。 

 次に事例を掲げ、その後で、再びこのような昇華にまつわる問題を考えてみることにします。 

 

(126―3)昇華の一例 

 これは昇華だと思われた一事例を挙げることにします。クライアントは女性でした。彼女はこれまで抑圧的な生き方(曖昧な表現で申し訳ありません)をされてきて、恐らく、本当に言いたいことが言えないというような状況をいくつも生きてきた人でした。ひどい抑うつに襲われていましたが、回復に差し掛かると、彼女はあるコーラス団に入団されたのです。それを聴いて、私は思わず「あっ!」と思ったのです。それが実にすばらしいことのように思えたのです。彼女は言いたいことが言えないという体験をする代わりに、歌いたい歌を歌うという方向に進まれたのだなと感じたのです。もちろん、彼女が歌を歌うということは彼女が決めたことであり、コーラス団も自分で探されて、自ら入団を希望されたのでした。これに関しては、私は何一つ示唆していないのです。そのコーラス団では、ゴスペルや賛美歌を主に歌うのだそうで、それもまた象徴的で意味深なものを私は感じたのでしたが、それは別の話になるので、ここでは省きます。 

肝心な点は、彼女のこれまでの生き方から見て、彼女が歌を歌うということは、私にはとても昇華的に見えたのです。彼女がもともと音楽が好きだったとか、そういうことをさておいても、私には彼女の選んだ方向がとても素晴らしく思われたのです。 

 彼女はもちろん昇華云々というようなことを意識してはいませんでした。昇華というのは、サリヴァンが述べるように無意識的である方が望ましいのです。もし、歌うということが彼女にとって昇華的であるならば、彼女のその後の生き方に大きな変化がみられるはずです。生憎なことに、私はそこまで彼女と会う機会が得られませんでした。もしかすれば以前とはかなり変わっているかもしれません。言いたいことがもっと言えているようになっているかもしれませんし、そんなことが気にならなくなっているかもしれません。歌を通してもっと様々な感情を表現しているかもしれません。 

大雑把な言い方をすれば、もしそれが昇華であるとすれば、その昇華はその人を望ましい方向に導くと私は捉えているのであります。これを書いている現在、彼女とのカウンセリングが終結してから一年以上が過ぎようとしているのですが、音沙汰がないということは、それなりに上手くやっておられるのだろうと、私は信じております。 

 

(126―4)愉しさと満足感 

 怒りに限らず、悲しみや不幸な体験は昇華していくことが人間には可能なのです。怒りは発散するよりも昇華していく方が望ましいのです。でも、それは無意識的でなければならず、それは昇華であると指摘することもできず、また他者に何が昇華であるかを教えることができないし、リストアップもできないとすれば、一体どうすればいいのだと思われる方もおられるでしょう。 

 人が自分の怒りを昇華しているということの一つの証拠は、その体験が愉しいと感じられており、満足感を当人の内に残すだろうということです。それらは昇華の特徴として挙げることができます。もちろん、私の個人的な見解であります。 

 そもそも人間の活動は、それがどのようなものであれ、何らかの攻撃的要素を含んでいるものです。攻撃的でない活動を探す方が困難なくらいです。いくつか考えてみましょう。 

 例えば、あなたは料理をするとします。目の前には食材が並んでいます。あなたは野菜の「皮を剥き」、手で「引きちぎり」、包丁で「切り刻み」ます。おろし器で「擂りおろし」、ミキサーで「擂り潰す」。また、肉を「切り」、串に「差し」、「火にかけ」、「焼き上げる」。魚は腹の方から包丁を入れ、腹を「裂き」、鍋に入れて「煮る」。さらに完成した料理を、私たちは口に入れ、「噛み砕き」、「飲み下す」。 

 上の文章で「 」の付いた語句に注目していただきたいのです。全て攻撃的な表現を含んでいるように思われないでしょうか。 

 夢中で床をごしごし磨いている人にとって、床の染みは「悪」のように体験されていることでしょう。これもまた攻撃的な活動ではないでしょうか。 

 私の父は数独パズルに凝っている。空白のマスに数字が「埋め尽くされて」いく時に、父は愉しみを体験しているかもしれません。 

 私は本を読む。難しい本だとする。それを分かろうとして苦労している。その時、私はその本を「制覇」しようとしており、「克服」しようとしているのです。 

 これらはすべて攻撃的な行動を伴っているのです。ただ、私たちはそれを攻撃として意識して行っているのではなく、無自覚的、無意識的にそういうことをしているのです。それらはすべて昇華的であり、人間のあらゆる活動は昇華となり得るのです。 

 もう一つ、肝心な点は、もしそれが望ましい活動であり、昇華的なものであるとすれば、本人に愉しい感じや満足感、爽快感をもたらすものだということです。カタルシスを当人にもたらすものであります。それが本当に昇華であるなら、その満足感は純粋なもので、不快感や忌避感を伴うような満足ではないはずであり、周囲を不快にするような満足ではないはずなのです。つまり、それは相手を攻撃したり周囲を不快にしたりすることで得られる満足感ではなく、いわば自分の創造性を発揮できたという満足感なのです。 

  

 

(126―5)昇華の道を求めて 

 本項を含めて三回にわたり怒りの対処として四つのパターンを取り上げました。もちろん、怒りの処理の仕方というのは無数にあって、この四つに限られることではありません。 

 爆発反応、引き伸ばし(延期)、抑圧、昇華という順で述べてきましたが、これはある程度、人間の発達の流れに応じているものであります。そして「技術的」に低い物から高度なものという流れもあります。怒りを感じたその瞬間に爆発するということは、もっとも容易なことでありますが、そのために当人や周囲の人に対して損失をもたらすものであります。この段階から、昇華の段階まで至ることが望ましいと私は捉えております。 

 人間の心が産出するものは何であれ価値があると私は思います。怒りでさえ、心がそれを生み出している限り、やはり価値があるのです。怒りの感情は否定されるべきではないのです。否定されるものは、怒りの感情を表出するいくらかの仕方であると私は捉えています。 

 怒りを抑圧するという場合、それはかなり意識的にしなければならないでしょうし、苦難も多いでしょう。それに、人間は自分の感情や心を完璧にはコントロールできないものです。だから怒りの感情を時には抑圧したり抑制して先送りするということが必要な場合もあるとは言え、それに完全に成功することはないものなのです。 

 怒りを言葉で表現するということは、適切な対処の仕方であります。しかし、そのためには訓練や技術を身に付ける必要も生じるのです。言葉では不十分にしか表現できないから、爆発反応をしてしまうのです。言語的表現には困難も伴いますし、言葉ではとても表現できないような感情というものも人間は体験するでしょう。それを表現しようとすることもまた困難を伴うことでしょう。 

 その点、昇華というのは、ある意味、理屈抜きなのです。そういう側面もあると私は捉えているのです。小さな子供は遊びの中でそれをやっているのです。理性でコントロールしようとか、巧みな言語表現で言い表そうとか考えずに昇華しているのです。そのように考えてみると、昇華はけっこうストレートなやり方であり、容易であると言えるかもしれません。 

しかし、昇華ということを人は案外容易にやっているかもしれないとは言え、昇華への道を模索するというのは、たいへん骨の折れる作業であります。昇華への道に歩み始めること、それが難しいのであります。それをする代わりに、人は怒りを不自然にコントロールしようと試みたり、衝動的に爆発したりといった、より安易な手段の道へ進んでしまうのです。 

それが難しいからこそ、価値があるとも言えるのです。怒りが昇華されると、しばしばその人は優れた業績を残すこともあり、そういう実例も多いものであります。私たちには怒りの感情が避けられないものであるならば、それを昇華していく道を私たちは見出していかなければならない存在なのだと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー