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<テーマ035>「うつ病」とアイデンティティ(2)

<テーマ35>「うつ病」とアイデンティティ(2) 

 

 前項<テーマ34>にて、アイデンティティには二つの側面があるということを述べました。前項では時間体験、歴史性の方を取り上げました。 

 本項では、アイデンティティについてのもう一つの側面である「役割アイデンティティ」について述べていくことにします。 

 「うつ病」においては、「役割アイデンティティ」ということとても重要な概念になるのです。 

 人は生活していると、様々な場面でいくつもの役割をとることになります。 

 一人の人がいくつもの役割をその場面場面に応じて担っているものです。例えば、ある男性は、会社では部下を持つ上司であり、さらに上の人にとってみれば後輩であります。家に帰ると夫であり、父親であります。実家においては、彼は長男であり、息子であります。町内においては副会長であり、仲間内においては彼は調停役であります。この人はさまざまな場面で、さまざまな関係性において、さまざまな役割を担っているということになります。 

 

 「うつ病」と診断された人の中には、「役割アイデンティティ」が発達している人がとても多いように思います。 

 「役割アイデンティティ」が発達しているとは、つまり、その役割を引き受け、速やかに自分に馴染ませるという意味であります。言い換えると、適応が良いということでもあります。 

 「うつ病」と診断された人たちは、「役割アイデンティティ」が発達しているだけに、職場や家庭での適応がすこぶる良好であったりします。時に、不適応にも適応してしまっているという感じを受ける人とお会いすることもあります。 

 彼らは職場や家庭において、まず「問題」を起こさないで生きていることが多いように私は思うのです。そればかりか、「うつ病」の人は社会で上手く適応してきたという背景があり、義務をきちんと履行してきた人たちであることが多いようですそして、しばしば社会的にそれなりに成功しているという人もよく見られることであります。 

 このことは、私には「うつ病」の大きな特徴であると捉えています 

 

「うつ病」の人が「役割アイデンティティ」を発達させているということは、私にとってもたいへんありがたいことであるのです。 

 彼らの「役割アイデンティティ」のおかげで、彼らは私を「カウンセラー」という役割で捉えてくれるのです。速やかに私の役割を彼らは受け入れるのであります。また、彼らも「クライアント」「患者」役割にスムーズに入って行かれるのです。 

 そればかりでなく、「クライアント」役割を完璧にこなそうとされる方も見受けられるのです。いずれにしても、「うつ病」の人が「治療」を受けるとなると、速やかに治療関係 

治療環境に馴染んでいかれるという印象を私は受けております。 

 そのおかげで、彼らは私の個人的な事柄に関心を示すこともないし、穿鑿することもないのです。神経症的な人たちがするように、私を値踏みしたり、試したりするということもほとんどないのです。 

 彼らはクライアント役割をきちんと果たそうとされるので、カウンセリングの枠組みに几帳面すぎるほど従ってくれるのです。予約した日時は驚くほどきちんと守ってくれますし、料金の支払いもきちんとされるのです。 

 私が「うつ病」と診断された人たちが好きなのは、彼らが大人しいということもあるのですが、こういう几帳面さ、真面目さがあるからなのです。 

 

 ただ、「うつ病」の人たちはどこかで度が過ぎてしまうのです。 

 良心的なのは結構なのですが、時に良心的すぎるのです。几帳面すぎるのです。それが彼らをして生き辛くさせているように感じます。 

 アブラハムは「うつ病」の「過剰善」について述べていますが、肯定的な傾向が過剰に前面に打ち出されているのです。この過剰さについてもいずれ述べていくつもりでおります。今は「役割」ということに話を戻しましょう。 

 構造的に見れば、私たちは根底に大きく「自分」というものがあって、その上に個々の役割を築いていると理解することができます。役割は私の一部であって、仮面や制服のようなものでしかないのです。 

 ここにおいても「うつ病」は度が過ぎているのです。彼らにおいては、「役割」がその人のすべてになっているのです。これを「役割との同一化」と表現されたりしていますが、「うつ病」と診断された人とお会いしていると、程度の差はあれ、こうした役割との同一化を示していることがよく感じられるのです。 

 もし、その人の一部であるべき「役割」がその人のすべてになってしまっているとすれば、その「役割」が損なわれたりした場合、その人にどういうことが生じるでしょうか。それたいへんな打撃になるということは想像に難くないでしょう。自分の根底が揺るがされるような体験となるかもしれません。 

 また、その「役割」を失うということは、そのままその人自身の喪失になるということを意味するでしょう。その人には何も残らないし、その代わりになるものも有していないということになるでしょう。 

 

 「うつ病」の「発病」契機として、何らかの役割変更が体験されているということはよく観察されることであります。 

 男性の場合であれば、昇進したり、転職や退職などが契機となることもあります。結婚、離婚が契機となることもあります。親の死が契機になったという人もありました。 

 女性の場合でも、母親になることや子供が巣立ったことなどが契機となることがあります。 

 上に挙げたことは、喪失という観点から述べられることが多いのですが、同時にそれはその人がこれまで採ってきた役割に変更をきたしていると捉えることができるのです。 

 

 「役割」ないしは「役割アイデンティティ」というものは、必ずしも客観的に把握できるとは限りませんし、当人に意識されているとも限らないのです。 

 このことを示す事例を挙げましょう。ただ、この事例は私自身が体験したものではなく、どこかで読んだものです。理解しやすいので掲げることにします。 

 ここで「うつ病」と診断されたのは、ある旅館の従業員でした、この人は年に二回くらい「うつ病期」があるということでした。それも毎年ある時期になると「うつ病」が始まるのです。そこで、これは「季節性のうつ病」であると考えられました。 

 しかし、この時期を丁寧に見ていくと、旅館の稼ぎ時が終了してから、この人の「うつ病期」が始まっていることが確認されたのでした。つまり、繁盛期が過ぎて、閑散期に差し掛かる頃に「発病」しているのでした。 

 このような場合、環境の変化が大きく影響していると考えてしまう傾向があるのですが、私は環境の変化は二次的な意味合いしかないと捉えています。 

 私は、この人の役割アイデンティティが繁盛期と閑散期で変わってしまうのではないかと思います。繁盛期の自分と閑散期の自分とは、この人は異なった自分を体験しているのではないかと思うのです。 

 繁盛期には、おそらく、彼の役割アイデンティティと現実とが一致しているのでしょう。この時期、彼は「うつ病」とは無縁なのです。 

 閑散期になると、彼は自分の役割アイデンティティを失ってしまう、自分自身のアイデンティティを失うかのような体験をされるのではないかと思います。その後に彼の「うつ病」が始まるのではないかと思う次第なのであります。 

 旅館の従業員という役割は、客観的には、繁盛期であれ閑散期であれ、同一なのです。でも、彼が主観的に体験している役割アイデンティティにおいて、彼は喪失を体験しているのです。そして、そのことを彼は意識できていないようあります 

 

 「うつ病」と診断される人たちは「役割アイデンティティ」が発達しており、そのために社会適応がとても良かった人たちだと捉えています。実際、そういう人が多いように感じております。 

 このことは「うつ状態」「うつ症状」とは異なる部分でもあります。この中には、役割を遂行する能力に欠けている人もあれば、適応が良くないという人もあります。つまり、この中には「役割アイデンティティ」の形成が不十分な人もよくおられるのです。 

 ここで一つ強調しておかなければならないことは、人は「役割アイデンティティ」を形成しなければいけないということです。ただ、それが度を越して、役割が自分自身になるほどまで、役割と同一化してしまうことが問題なのです。 

 では、なぜ「役割アイデンティティ」をそこまで発達させなければならないのでしょうか。 

 私たちはその場面ごとに役割を有しています。役割から解放された時、その人に残るものは何でしょうか。おそらく、それはその人自身であります。役割から解放されて、人はその人自身に戻るわけなのです。 

 「うつ病」ではそこに問題を抱えているのです。分かりやすく言えば、自分自身がないということなのです。役割以外のアイデンティティの形成が不十分なのです。 

 むしろ、その人は自分が希薄なために、役割にしがみつかなければならないのです。役割を自分自身にしなければ、それを自分のすべてにしなければ、その人は自分が無くなってしまうのです。役割が失われると、その人は自分の中に無とか空虚とかしか見えなくなってしまうのかもしれず、それらを見るくらいなら役割にしがみついている方が自分が助かっているという風に体験されているのかもしれません。 

 前項で、三十数年の人生をものの三分で語り尽くした女性の例を挙げました。彼女は「カウンセラー」役割である私の質問に対して、あくまでも「クライアント役割」として答えただけかもしれません。でも、その一方で、彼女には語るべき自分自身がなかったのかもしれないと、私はそう思うのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー