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<C1-3>長期化要因~完全主義

<C1-3>長期化要因~完全主義 

 

(フロイト精神分析の前例) 

 精神分析といえば、時間がかかる心理療法の代表格なのでありますが、標準型のものであれば、クライアントは週に5日も分析家のもとへ通い、それを何年も何年も続けていくのであります。私はそれが悪いと言っているわけではありません。精神分析のような治療は毎日行わなければ危ないという面もあるからであります。 

 その精神分析ですが、創始者のフロイトの治療は、初期のころはそれほど長期にわたるものではありませんでした。『ヒステリー研究』所収の事例を一読すればお分かりいただけると思うのですが、そこでは半年から1年、2年くらいの治療であったのであります。 

 精神分析の治療期間が長期化していったのは、フロイトが根本治療を求めるようになったからであります。つまり、精神分析を受けて回復した患者さんが、再び治療を必要とするということにフロイトはガマンならなかったわけであります。患者さんが再発することのない治療をフロイトは目指すようになったわけであります。人生で一時期の治療で今後その人がその病気にならないようにしようというわけであります。 

 フロイトはそうして根本からの治療、完全な治癒を追及するようになったわけでありますが、それに伴って治療期間が伸びていったのでした。 

 

(臨床家の完全主義) 

 フロイトの前例は、臨床家(治療者、カウンセラーなどを含む)が完全主義的に取り組むようになると、治療期間が長期化するということを示しています。 

 これはやはり事実でありまして、私が若いころに在籍していたクリニックに、やはり根本治療を目指している先生がいました。その病の根本にある根の部分を治療しなければならないとお考えになられていたようであります。それはその先生の考え方なのでいいとしましても、どうしても他の先生よりも長期化する傾向がありました。 

 そのクリニックは時間制限(回数制限)の方法論を取り入れていたのですが、他の先生はその制限内に終えるクライアントが多かったのに、その先生はその制限を超えてしまっているクライアントも多かったように思います。やはり根本治療のような方針は期間が延びえるのであります。 

 根本治療を目指すというのは、なんとなく素晴らしいように響くかもしれませんが、私はこれを臨床家の完全主義と見ております。完全に治療しないと意味がないとでもいわんばかりなのでありますが、それを目指すというのは、その臨床家が完全主義的であると私は考えています。余談ながらもう一つ付け加えると、それだけの完全な治癒を自分が達成できると信じている尊大さも私は感じとるのであります。 

 いずれにしても、クライアントにとってはたまったものではないのではないかという気もします。いずれ述べるつもりでおりますが、クライアントはそこまでの治療を求めていない場合が多いのであります。根本のところまで治療しなくても、当面の問題がなんとかなればいいと願うクライアントも多いのであります(むしろこういう人の方が多い)。そうなると、このクライアントたちは臨床家の完全主義に付き合わされる形になります。 

 私個人は根本治療というものは幻想でしかないと考えています。そんなものを求める方がおかしいとさえ考えています。根本まで治癒しなくても、人は十分に生きていけるのであります。 

 私自身も完全主義的傾向がないわけではないので、私自身を戒めるためにもこれを書いているのであります。カウンセリングや心理療法は、臨床家から見て、少しやり残したところがあるとか、少々の気がかりが残るとか、それくらいの方が却って望ましいと私は考えています。やり残したところは、クライアントは今後の彼の人生で達成していくかもしれないし、気がかりな部分も彼がその後の人生で克服していくかもしれません。そう思えないのであれば、その臨床家はそのクライアントを信じていないのであります。その臨床家は自分だけを信じているに等しいと私は考えています。 

 つまり、クライアントは治療がなければ生きていけないという感覚が私に伝わってくるのでありますが、それはクライアントを無能とみないているに等しいと私は思うわけであります。そして、完全な治療は自分(その治療者)だけができるのであって、クライアントが後の人生で克服していく可能性を最初から見ていないということになるので、自分だけを信じているということが感じられてくるというわけであります。 

 

(クライアントの完全主義) 

 さて、上に述べたことは臨床家側の完全主義傾向でありましたが、クライアントが完全主義的である場合もあります。自分の問題とか病に対して、完全な解決とか完全な治癒とかを求めるわけであります。少しでもそれが残ることが許されないのであります。 

 これはクライアントの不安のよるところのものが大きいと私は考えています。その人が本当に完全な治癒を望んでいるかどうかは分からないのであります。 

 その問題とか病にその人はかなり圧倒されているのだと思います。相当苦しい思いをしているのかもしれません。これだけ苦しいものに対しいて、自分はなす術がなく無力であるという体験をされているのではないかと思います。だから、こういうものは完全に消去してしまいたいという気持ちになられるのだと私は察しています。 

 こういうクライアントは、しばしば臨床家を転々とするのであります。自分が求めているものを提供してくれる臨床家に出会うまで転々とするわけであります。上手くそういう臨床家が見つかることもあるでしょう。こうして完全な治癒を求めるクライアントと、完全な治癒を提供しようという臨床家が結合してしまうのだと私は考えています。これは次に述べる予定をしております、悪い結合関係であるように私には思われるのであります。 

 その問題や病がその人を苦しめる程度を100としましょう。本当はこんなふうに数値化なんてできないのですが、仮にそのように考えてみましょう。これが80になるだけでも、その人はかなり「ラク」になったと感じるものであります。50まで下がったとしたら、もはやそれはほとんど問題にならないかもしれません。この時点で治療から離れる人もあるかもしれません。それが30まで下がったとしたら、まあ十分であると私は考えています。 

 こういう考えの利点は、「名残」が現れた時にその人に有効に働くように私は思います。「名残」というのは、昔の傾向が時折顔を出すということであります。以前の症状や問題行動などが忘れたころに現れるということであります。完全主義のクライアントではこれは耐えられないことではないかと私は思います。 

 

(治療は完全にはなされないこと) 

 身体の治療においても、実はあまり意識することはないかもしれないのですが、完全な治療は施されないのであります。医学における治るというのは、医学的処置が必要でない程度に良くなったという意味であります。できることには限界があり、もう医学的にできることがなくなったとすれば、その時点で医学的には「治った」ということになるのです。それは完全に「治った」ということを意味するのではないのであります。 

 例えば、古傷が疼くといった体験をする人も多いでしょう。私は骨折した箇所でそれを体験します。もはやこの骨折に対しては医学的にはできることがないのであります。それでも気候や季節によっては、その部位に痛みや違和感が生じるのであります。根本治療という観点に立てば、これは「治っていない」ということになってしまうのでしょう。 

 身体の治療でもそうであります。完全な治療、根本治療は幻想であります。そして、そこまで完璧に治癒しなくても、人はやっていけるものなのであります。 

 

文責寺戸順司高槻カウンセリングセンター代表カウンセラー