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<C1-7>原因について
<C1-7>原因について
原因探求の話が出たついでに原因ということについて考えてみたいと思います。少し脱線しますが、原因ということに関して押さえておきたいと思うところのものがあるからであります。
クライアントたちは原因探求をします。なぜ自分がこうなったのか、その原因を探求します。大抵の場合、この原因は自分自身には求められず、環境や他者に求められるのであります。そして、まず子供時代の親であり家庭環境に求められるのが常であります。
彼らは今の自分に生じているさまざまな現象の原因をそこに求めるのでありますが、それらはまずその人の個人的なこじつけであります。感情的なこじつけであったり、自分勝手な解釈によるこじつけであったりするのであります。
しかしながら、彼らを責めるわけにもいかないのであります。というのは、そういうこじつけは専門家がまず先にやっているからなのであります。本当は専門家でもわからないのであります。分からないので仮説を立てているに過ぎないのであります。
専門家もその人になぜそのような症状が生じているのか分からないのであります。でも、症状が生じているからには、それを生み出している原因が何かあるはずであると仮定するのであります。それでも調べても調べても原因となるものが見当たらず。だんだん時間的に遡っていって、クライアント本人もほとんど覚えていない時代の出来事に行き着くのであります。それでもって原因とするわけであります。この時、この原因探求はその臨床家自身のためになされているようなものではないかという気が私はするのであります。
心の問題というものは正体がわからないのであります。どういうものであるのかも本当はほとんど分からないのであります。さも分かったかのように専門家の先生がたは言うのでありますが、突き詰めて考えると分からないところだらけなのであります。
例えば、全くの架空の話ですが、高圧的で厳しい父親に育てられた人は、権威的な人を前にすると委縮して、恐怖してしまうとしましょう。そういう説があるとしましょう。A君もB君もどちらもその父親は厳しく、乱暴で、高圧的であったとしましょう。もし、この父親が対人恐怖の原因であるとするなら、A君にもB君にも同じ症状が発生していなければならないということになります。
この理屈は分かるでしょうか。因果というものは、原因であるそれが起きると必ずその結果が生じるということを意味しているわけであります。
ところが、確かにA君は権威的な人の前に立つと恐れを感じるのですが、B君は権威的な人を前にして挑みかかっていくような素振りを示すとしたらどうでしょうか。こうした差異が生じるのであれば、それは原因として認めることが怪しくなってきます。もし、それが原因であるなら、B君にも同じことが起きることが証明されなければならないわけであります。
心の問題ではそういうことが数々生じるのであります。そこで、A君は臆病な性格をしており、B君は反抗的な性格をしている、そのために二人の行動に差が生まれたのだと考えたりするのです。そうなると、A君の対人恐怖の原因はA君の性格にあるということになるのであります。これは一歩前進したのでしょうか、それとも後退したのでしょうか。結局のところ、トートロジーと言いますか、同じことを言い換えたに過ぎないのではないかという気がします。
その症状は子供時代の人格形成期に原因があるということと、その人の性格が原因であるということとは同義になってしまうので、何も進展していないことになります。では、なぜその性格の違いが生まれるのか、その原因が探求されなければならなくなります。
原因探求に関して、もう少し発展した立場に立つと、まず生理的な検査をするでしょう。生理的な検査によって異変が発見されれば、それを原因とするというものです。
A君が対人恐怖のような状態に陥るのは、その時の自律神経のバランスが崩れたためであるという説明がなされるわけであります。この場合、A君の症状の原因は身体的なものである、生理的なものであるということになるわけであります。
しかしながら、その時にA君の自律神経系統のバランスが崩れるのは確かであるとしても、どうしてその時に限ってバランスが崩れるのかということになると、何ら説明されていないことに気づきます。バランスを崩したことが症状の原因であるとするなら、バランスを崩した原因が今度は求められなければならなくなるのであります。
そこでA君の状況認知が歪むためであるという説明がなされたりするのです。権威的な人物を父親と認知しているのであり、この認知のゆがみが原因であるとするわけであります。では、今度は、その認知が歪む原因はどこに求められるのでしょうか。
原因探求を始めると、かように延々と堂々巡りすることになるのであります。
また、上述の生理的な検査を行った場合、何も異常が見つからないということも起こります。その場合はどうでしょうか。症状があるのに身体的な異常が見つからないというわけであります。通常、身体的検査で異常が検出されないのであれば、それは精神的なものであるとみなされるのであります。その場合、検査が完全であったということが前提になります。
もし、違った検査をしたら異常が検出される可能性があるのであれば、身体的な所見が見当たらないという結論は支持できなくなります。検査は完全にはできないのであるとすれば、身体的原因というものもどこまでも追及できてしまうのではないかと私は考えています。
つまり、原因探求はエンドレスに続けられてしまうのであります。
確かに、病気の中には原因が特定できないと診断がつかないというものもあるでしょう。感染症なんかはそうだと思います。何のウイルスなり菌なりに感染してその症状が出ているのか、特定しなければ治療法が選択できないということもあると思います。
心の病もかつてはそうであったかもしれません。しかしながら、アメリカの診断基準であるDSMなどは、もはや原因の部分に全く触れていないのであります。原因の部分を抜きにして診断ができるようになっているのであります。WHOの診断基準であるICDでもそうではないかと思っています。もはや、診断のために原因を特定する必要もなくなっているのであります。原因探求は、学問としては意味があるかもしれませんが、実用に耐えるものではないと私は考えています。
それはさておき、結局、心の問題は原因が分からないのであります。これが原因であると特定しても、どこか不十分な箇所、曖昧な箇所が出てきて、その信憑性が揺らぐのであります。
専門家や臨床家はそれぞれ心の病はこれが原因で起きるといった説を信奉していることもあるのですが、それは限りなく信仰告白に近いものであると私は考えています。問題児は問題の親が作ると言う専門家は、その説を信仰しているということを表明しているに過ぎないのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター・カウンセラー)