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<E3-16>キレる配偶者~治療以前
<E3-16>キレる配偶者~治療以前
(キレてスッキリする)
このキレる配偶者シリーズを書いているころ、あるクライアントが話したことがあります。クライアントの知人の方の話なのですが、その知人の方は「キレる人はいいわね、スッキリするでしょう」と、そうおっしゃったそうであります。
これは決して正しくないと私は考えています。もし、その人がキレてスッキリしているようであれば、それはその人には反省感情が生まれていないということを示しているのであり、加えて自分がキレることに対しての違和感を持っていないということを表しているに過ぎないのであります。キレることに対してもはや抵抗感がないだけなのであります。
キレるという現象は、いわば「させられ体験」に近いものであり、当人にすれば強制的にそうさせられてしまうとか、それに拘束されてしまうとか、そういう類の体験となっていると私は考えています。
従って、それは本来苦しい体験であるはずなのであります。もし、当人にそういう様子がないということであれば、もはや苦しいということがその人には分からないのかもしれません。
苦しいが分からないというのは異様に聞こえるかもしれませんが、私はそれがあると考えています。つまり、苦しいが分かる前にその人はキレているのであります。多少は苦しいが感じられているのかもしれませんが、それが把握されるよりも先にキレてしまうのではないかと私は思うのであります。
キレるというのは、瞬間型であるほど、それは自動的に発生するように体験されているように思うのですが、そのことは、つまり、その人は苦しいという体験を恐れており、その苦しいという体験に留まることができないということを表しているように私には思われてくるのであります。
反省感情が生まれないこともまた苦しいことに留まることのできない傾向の現れであるとも考えることができそうであります。
(異質と親和)
例外パターンや引き下がりパターンにおいては、その人はキレてしまいそうになることに対して抵抗を試みることが多いのであります。それはつまり、キレるということがその人にとっては苦しい経験であり、異質の体験であることを示しているように思われます。彼らはそれを体験しないように試みるのであります。
キレることに抵抗がなくなるということは、キレることがその人にとって親和的になっていることを表しているのであります。もはや、それ(キレること)はその人にとって異質なことではなくなっているのであります。キレることに対して抵抗がなくなっているのであります。キレるという傾向はその人の中で定着しているということになるのであります。
もし、キレるということが、その人にとって異質なことではなく親和的になっているなら、今度はキレる方がラクになるのであります。そして、それが親和的になるほど、キレる頻度も高くなるのであり、すぐキレるようになると私は考えています。その人の中でそれに抵抗するものが失われているからであります。
もし、キレる方がラクであるなら、それを治療することの方が苦しいということになるでしょうし、治る方が当人にとっては好ましくないということになるでしょう。従って、治療には相当高い動機づけが求められることになるわけであります。そこまでしてその傾向(キレること)を治したいという高い動機づけが必要となるわけであります。
(治療ははるかに前段階から)
キレられる側(クライアントであることが多い)は、キレるパートナーの治療を求めるのであります。私の個人的見解では、少なくとも当人に反省感情が生まれない限りは困難であると考えています。
当人がキレることで利得を得ている限り反省感情も生まれないことでしょう。利得というのは、キレることによって感情的に爽快になるとか、あるいはキレることで自分の要望が通るとかいったことであります。少しでもそういう利得を許してしまっているとキレる方が得になるのであります。
ともかく、当人の動機づけが絶対に必要なのであります。仮にどこかで治療を受けるとしても、当人がその治療の必要性を本当に自覚するまでに相当な時間がかかる可能性が高いと思っておいて間違いないと私は考えております。この自覚が当人に一生生まれない可能性もあり得ると思っておくとよろしいでしょう。
そこを通過して初めて治療の入口に立つことになるわけであります。従って、キレられる側がイメージしているよりもはるかに前段階のところからやっていかなければならないのであります。
(反省感情の有無)
何よりも当人に反省感情が生まれるようになることを私は重視します。
この反省感情は、キレられた側に対しての謝罪とかいう意味だけではありません。この人(キレる側)は、自分のその傾向のためにどれだけ自分自身や自分の人生を棄損してきたか、どれだけの損失を生み出してきたか、そのためにどれだけ大切な人を失い、大切なモノを失い、貴重な経験をつぶしてきたか、それを本当に知っていかなければならないのであります。
同じように、キレられる側にも反省感情が生まれるのであります。その相手と一緒に生活してきて、どれだけの損失があったか、自分自身や自分の人生をどれだけ無にしてきたか、耐えて尽くしてきたことがどれほど無に帰したか、それがなければどれだけ違った人生になっていたかなどを知っていくのであります。そこに反省感情が生まれるのであります。
理想は双方に反省感情が生まれ、それが自己変革の動機づけとなり、双方が自分自身を変えていく方向に動き出すことであります。それは単なる生きなおしではなく、生まれなおしなのであります。表面的な生きなおしで、当事者がそのままであるというようなものはたやすく崩壊するものであると私は思います。人生の重みを身に染みて知っていくことなのであります。この理想を実現できる夫婦はほとんどいないのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)