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<E3-19>キレる配偶者~無邪気さ

<E3-19>キレる配偶者~無邪気さ 

 

(無邪気さ) 

 キレられる側の人と面接していて、私もイラっとする時があるのですが、どういうところでイラっとしてしまうのかを取り上げています。 

 前項では真面目にハッキリ答えてほしいところで仄めかすような返事が返ってくるといった場面を取り上げました。そうした仄めかしは、不誠実さや不真面目さとして相手からは評価されてしまうかもしれないということでありました。 

 次に取り上げたいのは「無邪気さ」であります。これはどういうことかと言いますと、「言い過ぎる」ということであります。当人には悪意がなく、邪気がないのであります。相手への配慮を欠いてしまうのか、そこまで言わなくてもいいということまで言ってしまうのであります。時に、相手が触れてほしくないと思うところにまで、無邪気に入り込んでしまうのであります。それが相手の神経に障るということも起きるのではないかと私は思うのであります。 

 私はそれを無邪気さと評価しています。キレられる側である当人は至って無邪気にそれをするのであります。相手の方からすると、それは無神経などというふうに評価するかもしれません。キレる側からすると、相手が楽しそうに自分(キレる側)を傷つけてくるなどというふうに体験されているかもしれません。 

 引き下がりパターンの人にはこれが見られることがあるのです。キレないようにと当人は自分を抑制しているのですが、パートナーが食い下がってきて、触れてほしくないところを触れてくるとか、踏み込んでほしくないところまで踏み込んでくるとか、そういった体験をしていることもあるのです。 

 踏み込んでほしくないところに相手が踏み込んでくるように体験されるだけでなく、それをする相手(キレられる側)がまったく悪びれる様子もないということがまた耐えられないようであります。そして、キレられる側が「私は何も悪くない」などと開き直られるとなおさら感情が爆発してしまうようであります。 

 キレられる側には悪意がないように私には感じられています。キレられる側がそうするのは単純にその人が無邪気であるからであると考えている次第であります。では、その人はなぜ無邪気になるのかという疑問が生まれると思います。 

 

(依存) 

 さて、こちらが踏み込んでほしくないと思う領域に踏み込んでくるという人はクライアントにもおられるのであり、キレられる側の人、DV被害者側の人との面接でもよく体験するのであります。 

 この人はなんでそこまで踏み込んでくるんかいな、と私も思うわけであり、ゲスい表現をすれば「ウザい」と感じてしまうわけであります。ただ、面接は私にとっては仕事なので、注意集中し、精神的に緊張を保とうとします。つまり人格水準を高く保とうと務めているわけであります。もし、私がボンヤリしてまどろんでいる時に、つまり人格水準が下がっている時に、これをやられるとけっこう堪えるのではないかという気がしています。 

 それはさておき、こんなふうに踏み込んでくるというのは、自分の領域と相手の領域との境界線がはっきりしていないということになるかと思うのですが、性格的には次の二つの場合があると感じております。 

 一つは尊大さであります。自分は何を言っても許されるとか、相手に対してどんなことを言ってもいい権利があるとか、そんな態度の人であります。キレられる側の人にはあまりこういう人はみかけないのであります。 

 もう一つは依存であります。何を言っても相手は許容しれくれるとか、どんなことを言っても相手は聞いてくれるとか、そういう態度であります。これは信頼とかいう感情ではなく、依存であると私は考えております。信頼には、相手に対して言っていいこといけないこと、踏み込んでいいこといけないことの区別がきちんとついていることが前提にあると私は考えております。 

 つまり、相手に対して言い過ぎるというのは、相手に対しての依存心があるということになるわけであります。キレられる側の人にはこちらのパターンが多いという印象を私は有しています。 

 もし、依存であるならば、相手がキレた時には、外的な暴力や暴言だけでなく、心的には依存が断たれるという体験をキレられる側の人はしているのかもしれません。 

 しかしながら、キレられる側の人は依存心が高いなどという結論に至らないように注意しなければなりません。それは飛躍しすぎであります。その人は必ずしも依存心が高いというわけではなく、相手との関係においてその依存心が高くなると考える方が実際的であるように思います。 

 換言すれば、依存心を出してもいい特定の相手もあれば、依存心を出さない特定の相手もいるわけであります。このことはキレられる側の人の社会的適応の程度を見るとよく分かることなのであります。もし、誰彼かまわず依存心をあらわにしていたら、その人は社会的な適応が難しいことでしょう。不適応場面が多くなるはずであります。もし、その人の適応が良好であるなら、その人は依存心を出さない関係を築くこともできているということになるわけであります。 

 

(引き下がってくれないから引き下がる) 

 さて、キレる人が引き下がるパターンとは、結局のところ、キレられる側が引き下がってくれないので、こちらが引き下がるしかないというのが実情であるように私は思うのであります。パートナー(キレる側)が引き下がろうとすることは、キレられる側からすれば、依存の撤退ということを象徴するように思われてきます。キレられる側にはそれが耐えられないので、引き下がろうとするパートナーに食い下がってしまうのかもしれません。 

 

 さて、本節を読むのはきっとキレられる側の立場の人であると思います。あまりこの立場の人のことを書くことに気が引けるのであります。当初の予定では他のことも書くつもりでありましたが、それらは個人差が大きいようにも思うので割愛することにしたいと思います。 

 キレられる側の人たちから強く感じることの二つだけを取り上げました。一つは仄めかしでありました。肝心なことにはハッキリと自己主張できる方がいいと私は思います。イエスかノーか、明確に伝える方がいい場合にはハッキリと意思表示した方がいいのであります。イエスと言ったのかノーと言ったのか、パートナーの方が決めるということになれば、パートナーは自分に都合のいい方を選ぶこともあるかもしれません。 

 もう一つは無邪気さで、相手の領域に踏み込み過ぎてしまうという形で問題になるのですが、自他の領域の境界をしっかり身に着けることができるといいと私は思うのであります。相手に過度なまでに自己犠牲を払うというのは、自他の未分化な行動なのであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)