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- <H1-7>「ピッタリあてはまる」体験(1)
<H1-7>「ピッタリあてはまる」体験(1)
<H1-7>「ピッタリあてはまる」体験(1)
自称AC並びにAC信奉者の人たちは、AC者になる以前に不遇な体験をしていることが常であるように思います。それは、例えば、大きな挫折体験であったり、恥とか無力の体験であったりするのですが、そういう特定の体験がなくても、人生に行き詰っていたり、自分自身が充実していない感じに陥っていたり、そういった状態に置かれた人もおられます。
とにかく自分自身が上手くいかないのであります。そこで彼らはいろいろ調べるようであります。どうしてこうも上手くいかないのかなどなど、インターネットであれこれ調べるようであります。
そして、どこかでAC理論と遭遇するようであります。その時に、その理論が自分に「ピタリあてはまる」という体験をする人が多いようであります。本項はその体験について考えたいと思います。
その理論が自分にピッタリあてはまるが故に、その人はその理論から目を背けることができないのでしょうか、彼らはますますAC理論について調べたりするようであります。こうして、その理論にのめりこみ、その理論の信奉者になっていくのだと私は思います。別箇所で述べたと思うのですが、この理論は一時的に彼らに救済をもたらしていたかもしれません。
その理論が自分にピッタリあてはまる、彼らはその時の経験をそのように表現されるのであります。私が面白い(などと言ったら失礼かもしれないけど)と感じているのは、ほぼ異口同音にして一様にそのようなことを彼らは述べるというところにあります。どうしてこうも彼らは画一的というか、杓子定規のようにしか言えないのだろうと、私は思うのであります。
それはさておき、この「ピッタリあてはまる」というのは、実に不可解な言葉であるように私には感じられるのであります。一つの理論が完全に自分にピッタリ当てはまることなんてあり得ないことであると私は考えているからであります。人間に関するどのような理論も人間の一部を取り上げているに過ぎないのであります。人間から生まれた理論が人間の全体を占めることなんて通常では考えられないことなのであります。生み出されたものは生み出したものの一部に留まるのが普通のことであるように私は思うのであります。
もし、一つの理論が完全に個人にあてはまるとすれば、その理論が間違っているか、その理論の受け取り手が間違っているか、双方が間違っているかのいずれかであると私は考えています。
それはともかくとして、この表現に出会うたびに私の中では違和感が生まれるのです。どうしてその理論を信じるようになったのですがと問うたとしましょう。まず、それが自分にピッタリ当てはまるという返答が来るのであります。AC者はそうお答えになられるのであります。
ピッタリあてはまるとはどういうことなのでしょうか、こうした問を続けると、彼らは答えられないのであります。ピッタリ当てはまるからそれを信じているのにコイツは何を言ってるんだと思われているかもしれないのですが、それがピッタリ当てはまることとそれを信奉することの間にはもっと複雑な過程があるようにも私は思うのであります。その中間のところのものを彼らは表現することができないように私には感じられるのであります。
従って、彼らはそれを表現できないのだと、一時期の私はそう考えていました。それが自分にピッタリ当てはまるというのは、表現しがたいものを表現しようとして、敢えて言葉にしたらそのような表現になったのではないかと考えていました。何か言いようのない体験をしているのかもしれないと私は考えていました。
もし、一つの理論なり思想なりが、自分の体験と一致するとか適合するとかいう体験をしたとすれば、それによって自分のことが分かるとか疑問が解消したとかいうことが得られたとすれば、その人はもっと安定してくるはずなのであります。自己理解が安定感を回復するのであります。ところが、AC者を見ているとそのようにはなっていないような気がしてくるのであります。むしろ、それは彼らの何かを破壊しているのではないかという印象も生まれるのであります。彼らはますます不安に襲われ、ACを信奉するようになっていくという印象を私は受けるのであります。
一体、彼らは何をそこで体験したのでしょう。私にはまったくの謎でありました。
最近になって、私は自分の見解に変更を加えました。あるAC者と面接している時に、ふと思ったのであります。彼らはそこまで複雑な感情を体験していないかもしれない、とそのように思ったのであります。
その理論が自分にピッタリ当てはまるという体験は、私はそこに複雑な感情体験の絡み合いが生じているのではないかなどと考えていたわけでありますが、案外、彼らは体験していることをストレートに述べているだけなのかもしれない、とそのように考え始めたのでした。
失礼な言い方でありますが、AC者は、私が思っているよりもはるかに、単純な人が多いと思うようになったのであります。彼らはあまりにも単純で、理論が自分に当てはまる、だからそれは正しい、その理論に則って行為することは正しいと、単純にそう考えているだけなのではないかと思うようになったのであります。ピッタリ当てはまるという体験は、その理論を吟味したりすることなく、何が当てはまり何が当てはまらないのかといった判別もなく、その他の見解とか反対意見にも触れてみてその適合の妥当性を検証するといった手続きもせず、ピッタリあてはまった時点で、その人の中で完結しているのではないかと思うのであります。それが私には非常に単純な人であるという印象を受けるのであります。
従って、ピッタリ当てはまるという体験が事実であるとすれば、それがどういうことであるかなどと熟考した上でその理論を信奉しているのではないということだけは確かに言えるように思うのであります。思考以前の体験を述べているように私には思われてくるのであります。
思考以前の体験ということは、端的に言えば、感情的体験であります。AC理論は彼らの感情に訴えかけるものがあるのでしょう。ピッタリ当てはまるというのも、感覚や感情の次元の体験であるように思われるのであります。
もし、こう言ってよければ(と言いますか、今の私の本心でありますが)、それが自分にピッタリ当てはまるという体験は、ただの暗示に過ぎないのであります。そのような暗示をかけられ、そのように自分に暗示をかけ、その暗示の影響下に置かれているだけなのであると私は考えています。従って、新興宗教の信者と大差がないと私は考えております。実際、AC者の回復過程は新興宗教から改宗すること、カルト教団から脱会することと等しいように感じられているのであります。AC者はその暗示の支配下にあり、そこから抜け出せなくなっているように思われてくるのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)