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- <H1-8>「ピッタリあてはまる」体験(2)
<H1-8>「ピッタリあてはまる」体験(2)
<H1―8>「ピッタリあてはまる」体験(2)
人はAC理論に遭遇することでAC信奉者になっていくのであります。どこかでAC理論と遭遇して、そこが一つのターニングポイントになることが多いように思うのですが、その時の体験を彼らは異口同音にして「その理論が自分にピッタリ当てはまる」と表現されるのであります。
もし、自分に関しての理解が深まるのであれば、その体験はその人に安定をもたらすのであります。しかし、彼らはそうならずに、さらに焦燥感に駆られ、パニックに陥り、無力化され、さらにそれにのめりこんでいくという印象を私は受けるのです。つまり、「ピッタリあてはまる」ということが彼らにはマイナスに作用しているように感じられてくるのであります。
従って、この遭遇は、彼らが自分で信じているほど望ましいものではないのかもしれません。むしろ、心の奥底に仕舞ってあるものを不意に指摘され、意識の場に引きずり出されるという体験となっているのかもしれません。だから場合によっては急性精神病のような様態に陥ることがあるのだと私は考えています。
いずれにしても、ピッタリ当てはまるという体験は感覚的、感情的な体験であって、急に指摘されることによる驚愕がもっとも近い感情体験ではないかと思われてくるのであります。彼らは、「それがピッタリ当てはまる」という体験以前に、驚愕の感情体験をしているはずであり、その驚愕に対する防衛としての反応であるかもしれないとも私は考えています。つまり、ピッタリあてはまることに驚愕するのではなく、ピッタリ当てはまるということで先に生じていた驚愕を鎮めるというところがあるのかもしれない、とそう思うのであります。ショッキングな体験を処理する一つの方策であるのかもしれないということであります。
AC者はその時の体験を語らないのであります。語れないのかもしれません。だから私にはわからないのであります。だからいくつもの仮説を構築していくしかないのであります。もし、上述のように仮定するなら、ピッタリ当てはまるという体験は、衝撃に対しての防衛であり、そういうことにしないと衝撃を衝撃のまま保持しなければならなくなるのではないかと私は思います。
その理論は彼らを驚愕させ、恐れさせるのであります。この恐怖に対処する一つの方策として、それを盲信するというものがあります。恐怖政治に対処する一つの術はそれを盲信することであります。反乱分子にならないようにするというだけでなく、反対すればするほどその政治に対峙してしまうからであります。盲信している方がはるかにそれを見ないで済むのであります。ユーレイを恐れている人はユーレイの存在を盲信しているかもしれません。本当にユーレイを見てしまった時の衝撃が、その存在を信じていない人よりも、緩和されるからであります。
私は思うのであります。AC者がAC理論を手放すことができないのは、それが自分にピッタリ当てはまっているからではなく、恐れがあるからである、と。その中に入っている方が却ってそれを見なくて済むのであります。私はそのように考えているのですが、実際、彼らの中には本当はその理論を恐れているのではないかと思われるような人も私は見かけるのであります。その理論にしがみつくことで安心を得ているという感じがしない人もおられるように思うのであります。安心をもたらすからしがみつくのではなく、怖いから見えるところに置いておきたいといった感じであります。
いずれにしても、私はAC者がAC理論に遭遇する時、さらにはそれ以後も、その理論は驚愕をもたらし、驚愕をもたらすが故にその理論に対しての恐怖感を持っているのかもしれないと思うのであります。
ところで、AC者は、最初にAC理論と遭遇した時の体験は表現できないけれど、その時の状況はよく覚えていることがあります。漫然とネットサーフィンしている時に遭遇した時に、まどろんでいる時にラジオから流れてきた時に等々、そういった状況は語られるのであります。
人には暗示にかかりやすい状態というものがあります。基本的には人格(意識)水準の低下している状態では暗示にかかりやすいのであります。従って、疲労時や就眠時などは暗示にかかりやすいと言えるのであります。また、欲求不満な状態でも被暗示性が高まるということが知られており、彼らは人生上で行き詰っている状態にあることが多いので、何かと被暗示性が高まっているかもしれません。
それを踏まえて、私の考えるところのものを述べたいと思います。まず、AC理論はその人に不意に飛び込んでくるのであります。不意打ちを食らうようなものであります。偶然的にそれに遭遇し、それが心の中に一方的に且つ一気に入り込んできて、その人の内面を搔き乱すのであります。ここに驚愕の感情体験があるということであります。この驚愕の体験に、心の中を搔き乱すそれに対処しなければならなくなります。ピッタリ当てはまるというのは、その対処の一つの方策なのであります。追い払おうとすればますますそれが意識に上がるので、それに同調してしまう方が安泰であることもあるわけであります。彼らはそちらを選んだのではないかと思う次第であります。
自分にピッタリ当てはまるから正しいという認識がまた暗示作用を持つことになるのでしょうか、彼らはそれにしがみつき、盲信するのであります。そして、彼らは特徴的なことを始めるのであります。現実の親に向かって、過去の親の過ちを指摘して、謝罪なり反省なりを求めるのであります。AC者によってはかなり狂信的にそうされるのであります。
自称AC者がよく来談していた時期に、「お前のところは宗教か」といきなり問い合わせてくる人もよくありました。今から思うと、この問い合わせをしてきた人は自称ACに困らされている人たちであったかもしれません。彼らの親であったかもしれません。この問い合わせに、今さらながらお答えしたいと思います。カウンセリングは宗教ではないけれど、ACは限りなく宗教に近い、と。
AC信奉者になって、まだ日が浅いというクライアントは、それ以前のことを覚えています。それによると、AC理論に遭遇するまではそこまで親を憎悪していなかったということであります。親のことを好きになれないとか、嫌いとか、あるいは苦手だ、困った人だとか、その程度の感情しかなかったのであります。AC理論はそれらの感情を一気に憎悪にまで引き上げてしまうように私には思われてくるのであります。現実の親がいい親ではなかったとしても、彼らは教条に歯向かうのではなく、直接親に歯向かうのであります。決してその理論の方が間違っているなどとは考えないのであります。つまり、宗教の教義のように盲信しているように私には見えてくるのであります。そして、だんだんとそれがエスカレートしていく人も多いのであります。そうして行き着く先は、親に対する暴力であり、果ては親殺しに至るのでしょう。この親殺しは宗教殺人に近似のものであるように私には感じられています。
現実に親殺しに至らない場合であれば、最終的に当人が「廃人」のようになるのであります。
ごく一部のAC者だけがその二つの結末を回避することができるのです。AC理論を捨てることのできたAC者だけが回復に至るのであります。その理論が自分にピッタリ当てはまっているうちは回復は見込めないのであります。というのは、その理論が完全に自分に等しくなっているからであります。それを捨てることは自己喪失の体験に直結してしまうからであります。
従って、AC者は理論との不一致を作り出していかなければならないということになるわけでありますが、それは新たな自己形成によって可能となると私は考えています。しかし、大部分のAC者はその方向には進まないのであります。彼らはAC者に留まり続けるのであります。
私が反AC論と打ち出しているのは、大部分のAC者は救いようがないと信じているからであります。その理論が自分にピッタリ当てはまっているという体験はかなり致命的であると、その理論が自分にピッタリあてはまると体験した時点で取り返しのつかない状態に陥っていると、私はそう考えています。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)