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<T006-11>(R3-10)「治していただけるでしょうか?」

<Ⅲ-10> 「治していただけるでしょうか?」 (約3300字) 

 

 ある時、問い合わせがありました。その人は簡単に自分の症状を述べた後、「治していただけるでしょうか?」と私に尋ねたのです。私は、「治るか治らないかはあなたの意志しだいでしょう」と言ってしまったのです。それは咄嗟に出た言葉なのです。相手は、「それじゃ、いいです。他を探します」と言って、電話を切ってしまいました。 

 その後、なぜそんなことを咄嗟に言ってしまったのかということを私は考えました。私が体験したのは、一種の恐怖感のようなもので、それは相手の言う「治していただけるでしょうか?」という言葉に反応したものだということに私は気付きました。 

 どうして、相手のこの言葉が私に恐怖感を与え、私を防衛的にしたのだろうか、それをさらに考えていきました。そうして分かってきたのは、この言葉、「治していただけるでしょうか?」という言葉には、どこか人間が欠けているということです。それはあたかも時計や自動車を修理に出すかのような言い方なのであります。私は、相手の中に人間を感じ取れなかったのであります。その人は、自分自身を、機械の故障を直してもらうかのように、私に尋ねているのです。言い換えれば、相手は自分自身を機械化しているのです。それが、私が相手の中に感じとったことであり、私に恐怖感をもたらした源泉だったようです。 

 

 基本的に、人間が作った物は人間の手によって直すことは可能です。時計や車が故障したとしても、それらは人間による被造物なので、人間の手によって修理ができるわけであります。部品を交換したり、作り直したりができるわけであります。 

 一方、人間が作った物ではない場合はどうでしょうか。例えば、自然破壊はどうでしょうか。自然は人間が作った物ではありません。人間はそれを破壊することはできても、修理することはできません。修復のために手を打つということはできても、最終的には自然が自らを治癒していくのを待たなければならないのです。 

 それでは、人間ではどうでしょうか。一体、人間を作ったのは誰でしょうか。人間は子供を産む、だから人間が人間を作るのだという見方もできるでしょうが、その人間という存在を生みだしたのは誰なのでしょうか。キリスト教では、それは神であるということになります。日本の神話では、神々から人間へというつながりが見られます。いずれにしても、人間を作ったのは人間自身ではないということは共通して見てとれます。 

 極端な言い方をすれば、人間を治すことができるのは、神だけである、ということになってしまいます。どんな病でも治すと豪語するような治療者がいるとすれば、その人は神になっているのです。自分が人間であることを見失って、神だと思い込んでいるのであります。そのような人は、診断的には「誇大妄想」ということであり、専門語では「肥大した自我(理想)」などと呼ばれる状態にあるのです。 

 私は人間であるので、いかなる人間をも「治す」ことなどできないのであります。また、私は人間であるので、他の人間が私を「治してくれる」という期待を抱いておりません。人間は、先の例の自然のように、自らを治癒していくものであり、周囲の人間はその人のお手伝いができるだけなのであります。 

 

 さて、次に「治るか治らないかはあなたの意志次第でしょう」という私の言葉について考えていきます。この言葉は、けっこう私の本音を表しています。 

 身体の病気であっても、本人の意志というものが絶対に必要であり、その意志に基づいた行動が求められるものであります。宗教上の理由で医療処置を拒否したために死に至ったというような事が時々起こります。その処置を受けていれば死なずに済んだかもしれないのだけど、その人は自らの意志でそれを拒んだのです。「治る」ことよりも、自らの意志で「信仰」の方を選んだのです。また、私の知人で成人病、生活習慣病を抱えながら、何一つとして生活を改めないという人がいます。悪くなったら医者にかかればいいだけだと考えているようなのです。彼はその生活習慣病を治そうという意志を持たないのです。だから、彼はいつまで経っても病から抜け出すことができないでいるのです。 

 心の問題とか「心の病」とかいわれるものに関しては、さらに本人の強い意志が求められるのであります。もし仮に、あなたが「心の病」を抱えていて、それを「治そう」と決意したとします。それが「治った」時には、あなたの家族はただの他人になっているかもしれません。恋人は「治った」あなたの元から去ってしまうかもしれません。あなたが「治った」ために、あなたのお母さんが精神病になってしまうかもしれません。あなたが「治る」ということは、一部のあなたの周囲の人にとっては、たいへんな不都合をもたらしてしまうかもしれません。彼らはあなたが「治る」ことに反発するようになるかもしれません。こうしたことは、臨床の現場では本当に起きることなのであります。 

 それでもあなたが「治る」ことを望むのであれば、周囲でどのようなことが起ころうとも絶対に「治す」という固い意志と決断が求められるのであります。 

 つまり「心の病」と言われる状態を「治そうと」するなら、必ず何がしかの犠牲が伴うかもしれないということを覚悟して欲しいのです。例えば、あるクライアントは絵を描くことが好きでした。その人はそれまで絵を描くことで心のバランスを保ってきたのでした。症状が重くなってきたために、彼は治療を受けたのです。その治療はたいへんうまくいきました。私はその人「治癒」の一部をカウンセリングで手伝っていました。彼の症状は失せていき、予後も良好であるという見通しがついていました。しかし、その頃には、彼は昔のように絵を描くことができなくなっていたのです。絵を描くことはできても、以前のような才能の閃きが失われてしまったように体験していたのでした。私は現実に彼の絵を見たことはないのですが、彼には何かが決定的に失われたように体験していたのでした。 

 このような例は非常によく見られるものであります。特に芸術的な方面での才能というのは、精神的健康と引き換えに失われるのかもしれません。すべての人がそうであるとは必ずしも言えませんが、私が実際にお会いした人や見聞したケースでは、こうした例もけっこうあるものです。 

 

 さて、最初の「治していただけるでしょうか?」と問い合わせた人のことに戻りましょう。先述したように、私はこの言葉があまりに人間味に欠け、機械化した表現であることに恐れを感じました。おそらく、ここにこの人の問題があるだろうと思います。 

 こういう問題を抱えていて、それを「治していただけるでしょうか?」という形でしか、この人は表現できないのであります。決して、「助けてほしい」とか「手伝ってください」とは言わないのであります。そのように言うことは、もしかしたら自尊心が許さないのかもしれません。しかし、「治していただけるでしょうか」に比べれば、はるかに人間的な表現なのであります。一人の人間として依頼していることになるからです。この人には、これができないのであります。 

 自分自身を機械のように表現することは、その人の中で自己疎外が起きていることの証であると、私は考えています。この人に限らず、多くのクライアントはあたかも機械に油をさすかのように自分自身の処置を求めてきます。自分自身の操作方法を求めてきます。自分自身や人間に関しての取扱説明書を求めてきます。もし、私がそれに応えようとするなら、私はクライアントの機械化を手伝うことになってしまうでしょう。私はそれを拒否するので、そうしたクライアントは期待が裏切られたように体験するでしょう。きっと、私に失望することでしょう。それでも構わないと私は考えています。少なくとも、クライアントは自分が人間であることを再確認することになれば、それで構わないと考えています。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー