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<T007-06>「息の喪失」を読む(2)

コラム6~『息の喪失』(E・A・ポー)を読む(続き) (約3300字) 

 

 コラム4とコラム5の順番が逆になってしまいました。別に読む分には差し支えはないのですが、一応、ここで私の失敗を認めておくことにします。どうも、慣れないことに手を出すとこういうミスをしてしまうものであります。 

 

 さて、物語を続ける前に、どうして私がこういうことを記述していこうとしているのかという、その理由と目的を明確にしたいと思います。 

 カウンセラーというのは、とにかく人を理解しようとする人であると捉えて下さい。しかし、理解の仕方というのは実は非常にさまざまなものがありまして、個々のカウンセラーによっても、その人の個人的背景が理解の質に影響するために、一人一人のカウンセラーによって理解の仕方が異なってくるのであります。そこで、私がどのような他者理解をしているのかということを示す必要があると考えているのであります。 

 しかしながら、現実のクライアントを取り上げて、その理解を詳細に述べていくとすれば、そこにはプライバシーの問題などが生じてくるのであります。できれば実在の人を取り上げたいというのが私の理想なのですが、そうした問題のために、どうしても記述できることが制限されてくるのであります。 

 では、それなら文学作品の中の人物ではどうかということになります。それは実在の人間ではないとしても、私たちはその人物を自由に分析できるという利点があります。従って、文学作品中の人物を理解して示すということは、他者理解の実例を示すにあたっての、一つの妥協点でもあります。 

 注意してほしい点は、私が作中の人物の人格や性格を理解しようとしているのではないということであります。それよりも、その都度の場面で、主人公に何が起きているのかということを理解しようとしているという点に注目していただきたいのであります。実際の面接でも、私はそういう点に焦点を当てて理解することが多いのであります。 

 こうしたことは前回のコラムで述べておくべきでしたが、私がうっかりして書き損ねてしまったのであります。書き始めると、読み手のことはまったくそっちのけにして書いてしまう癖が私にはありまして、そのために、どうしてカウンセラーがこういう文学作品を分析しているのかということが理解できなかった方もおられるかと思います。この場を借りて、私の自分勝手な進め方をお詫びしたく思います。 

 では、物語を続けましょう。 

 

 

(D)主人公はある戯曲のセリフを習得して、その後、この土地を去ることを決意します。 

 

 この戯曲のセリフというのは、主人公によると、「私がなくしたような声の調子は全然必要なく、初めから終わりまで深い喉音一色でとおすことになっていた」ようであり、また、それが「多くの場面で活用できる」ものであるということであります。彼は、急に演劇熱にとりつかれたような印象を周囲に与えることによって、この行為を正当化しようと試みます。 

 ちなみに、この戯曲は『変身』というタイトルでありまして、これはとても象徴的なタイトルであると、私には思われます。 

 それまでの主人公というのは、息を探したりして、とにかく元に戻ろうとしていたのですが、ここでは、元に戻ることではなく、息を失った人間として生きることを選択しているのであります。彼はかつて、「この地球上に出現した変則の奇型」と自分自身を捉えたのでしたが、その「変則の奇型」であることを否認するのではなく、「奇型」として生きようとしているのであります。従って、彼自身の心が、以前とは「変身」してしまっているように感じられるのであります。彼の自己像が「変身」してしまったのだということもできるかもしれません。 

 また、彼は演劇熱にとりつかれたように見せかけるという、演技をしなければならなくなっています。「自分がおかしい」ということを自覚してしまっているからこそ、「自分はおかしくない」という演技にしがみつかなければならなくなるわけであります。 

 奇型として生きることになった彼は、この後、思いもよらない出来事を経験していくことになります。 

 

 

(E)さまざまな災難に遭遇する。 

  まず、土地を離れるために主人公は馬車に乗ります。主人公は、その馬車の中で、ものすごい巨漢の男性の下敷きになってしまいます。その巨漢が目覚めて、彼を見ると、彼の様子がおかしいということに気づきます。主人公はその巨漢のせいで手足の関節が外れてしまい、動けなくなっていたのでした。乗客たちは主人公を起こそうと、彼を叩いたり、耳を引っ張ったりするのですが、彼は反応のしようがありませんでした。そして、彼が息をしていないということが分かると、乗客たちは彼が死んだものとみなしたのでした。 

 死人と一緒に旅を続けるのは耐えられないということで、主人公は荷物一緒に通りに放り投げられます。彼が投棄された場所は、「鴉軒」なる居酒屋の前でした。 

 

 もはや主人公は生きた存在としてみられなくなっており、ここで最初の迫害を経験しています。 

 この「鴉軒」という、彼が捨てられた場所にあった居酒屋の名前には、意味深なものがあります。鴉という鳥はどこか「死」とか「不吉なもの」をイメージします。実際、ポーの有名な詩『大鴉』においても、鴉が死の象徴のようにして現れてきます。先ほどの劇は『変身』でしたが、ここでは「鴉」という死を思わせるような象徴が用いられています。このことは、どこか主人公に不吉な死の影が濃くなってきているかのような印象を伝えるように思われるのです。 

 実際、彼は死人として、物体のように投棄されているのであります。 

 

 「鴉軒」のおやじは、主人公が死んでいるのを見て、ある外科医に死体を売りつけます。外科医のもとに運ばれた主人公は、外科医から手術を施されます。その時、彼に生体反応があることを認め、知り合いの薬剤師を呼び、この死体がまだ生きていると思うかと、薬剤師に意見を窺います。薬剤師の方は死んでいると主張します。この一部始終を主人公は聞いているのですが、彼には自分が生きているということを示すいかなる手段もありませんでした。結局、彼が生きているのか死んでいるのかということの結論が出ないので、外科医と薬剤師は、彼を屋根裏部屋に保管することにしました。 

 

 ここで、息を失った主人公、奇型であることを受け入れた主人公が体験していることが、どういうものであるかを考察してみることにします。 

 簡潔に言えば、彼はもはや生きた人間とはみなされなくなってしまい、「物」でしかなくなっているということであります。「物」の次元にまで落ち込み、また、「物」としてしか扱われなくなっているのであります。 

 彼は自分が生きているということを証明することもできません。言葉で伝えることができない彼は、人間社会から脱落し、孤立した世界に生きることになってしまいました。彼が生きている、この孤立した世界において、彼を最も苦しめているのは「生」そのものであります。 

 通常、生を享受している人間にとって、最も恐れられているものは「死」であります。例えば、「不安障害」で苦しむ人の不安内容を突き詰めていくと、そこには自分自身の死に対する不安があるということがはっきりします。私たちが恐れるのは自分自身の「死」であります。 

 ところが、この主人公にとって、死はもはや不安を喚起する対象ではなく、恐怖でもなくなっているようです。それよりも、彼にとっては、生きる事の方がはるかに苦悩と恐怖に満ち溢れてしまっているのであります。 

このことからも、彼が私たちとはまったく異なった世界に生きているということが分かるのであります。 

 

 

 さて、物語はまだ続き、主人公が体験する災難もまだまだ続くのですが、とても長文になりそうなので、項を改めて続きを追っていくことにします。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー