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<T007-10>「息の喪失」を読む(5)

コラム10~『息の喪失』(E・A・ポー)を読む~全体を振り返って (約2700字) 

 

 三回に渡って『息の喪失』の物語を追っていきましたが、ここでは全体を振り返って、述べ切れなかった内容を綴っていくことにします。 

 

(A)何が主人公の息を喪失させたのか 

 もう一度、主人公が息を失った場面を振り返ってみましょう。それは結婚初夜の翌朝で、彼が妻を激しく怒り、罵っていた場面でした。何が主人公をそこまで激怒させていたのかということは、結局、最後まで明確にはされませんでしたが。そして、彼が悪口の決定打を妻に浴びせようとした瞬間に息を失ったのでした。 

 なぜ、その瞬間だったのでしょうか。もっと先でも後でもよかったはずであります。ところが決定打を放つその瞬間を狙ったかのように、彼は息を失ったのでした。一つ、確実に理解できることは、彼が息を失ったことで、悪口の決定打を妻に浴びせることができなくなったということであります。従って、この決定打は妻に対してなされてはいけないものだったのに違いないということが推測されます。 

 彼が息を失って発声できなくなったために決定打を放てなくなり、それによって妻が救われているわけであります。妻と、ならびに妻との関係がこうして守られたのだというように理解できるのであります。それは、妻、並びに妻との関係が破滅してしまう前に、彼は自らそれに制止をかけているように思われます。自らと言っても、それは彼が無意識的にしてしまっていることであり、意図的にそうしたという意味ではありません。 

 この制止は、彼に対しては懲罰的に働いているということも読みとることができます。つまり妻を破滅させてしまう前に、彼は彼自身の方を先に破壊してしまっているのであります。彼にそのようなことをさせているのは、彼の無意識の良心であると考えることができます。自分自身を破壊することで、妻を破壊することを防いでいるのであります。従って、主人公はとても善良な人間とみなすことができるかもしれません。 

 彼が息を取り戻すのは、ラストの場面で、「息倉氏」と対決したことによってであります。このことは彼が自分自身に気がついたのだというように解釈できます。初めは妻を罵っていたのですが、その感情や言葉は、本来妻に向けられるものではなかったのであります。彼は自分が何に対して怒りを爆発させていたのか、初めは理解できていなかったのではないかと思われます。自分でもよくわからないけれど、とにかく妻に対して感情を爆発させていたということであります。また、それが正しいことのように彼には思われていたかもしれませんが、彼の無意識はそれが正しいくはないということを感じとっていたようであります。彼は最後に、自分の感情をぶつける本来の対象と出会っているわけであります。彼を苦しめていたのは、妻に対する感情ではなくて、「息倉氏」に対する感情だったのであります。しかるべき対象にしかるべき感情を向けて、対決することによって、彼は回復したわけであります。息を探すことも、異常な自分を受け入れることも、どちらも彼に真の回復をもたらさなかったのであり、それらは間違った解決の仕方であったということが理解できるのであります。 

気づきという観点から述べれば、彼は初めは自分が誰に対して、何を怒っているのか気づいていない状態から、真の対象と出会うことによって、それらに気づいたというように考えることもできます。そして、そのことは彼が自分自身に気がついたということにつながっているように私は思うのであります。 

 

 

(B)語り口について  

 こうして物語を追ってみると、とても悲惨で、苦痛に満ちた物語であるかのような印象を持たれるかもしれません。しかし、実際に読んでみると、それほど悲惨な感じを受けないのであります。物語は主人公の一人称で語られているのですが、その語り口がとても軽妙で、悲壮感を感じさせないのであります。むしろ、ユーモアや皮肉に富んでいて、どこかジョークとか小噺といった印象さえ受けるのであります。 

 語り口が軽妙でユーモアに富むからと言って、彼が体験したことが笑い話で済ませることができないものであることに違いはありません。つまり、彼は悲惨な体験を面白おかしく語っているということになります。これはどういうことなのでしょうか。 

 カウンセリングの場面では、クライアントが自分の苦しい体験を笑いながら楽しそうに話すということも頻繁に目にします。例えば、過食症の人がいて、その人が前夜、どれだけのものを胃袋に詰め込んだかという話をします。それは物凄い分量で、それだけ一気に詰め込んだらさぞかし苦しかったことだろうな、など聞いている方は思うのであります。聴いていながら、私は胃の辺りに痛みを感じたこともあるのです。しかし、その人はいとも楽しそうにその体験を話すのであります。一通り聴いた後で、私が「それだけ一度に食べたのだったら、とても苦しかったんじゃありませんか」と尋ねてみると、その人は、初めて気がついたように、「確かに食べ終わった直後は胃が苦しかった」と話されたのでした。自分が苦しい体験をしたということが、私に指摘されて、初めて自覚できたかのようでありました。 

 つまり、自分が体験したことと、それを表現する仕方がかけ離れているということなのであります。どうしてこういうことが起きるかについては、さまざまなことが考えられます。自分の体験を掴みとれないという場合もあれば、適切に感情表現することができないという場合もあります。苦しいという感情を表現することが禁止されているというような人もあるでしょう。その感情に向き合えないという場合もあれば、その感情が強烈すぎてそのままの形では表現できないというような場合もあることでしょう。 

 この主人公は、実はたいへんな体験をしていながら、それを笑い話のように語って聞かせていますが、それは自分の体験した苦しみの感情を否定(感情の否認)しているように私には思われました。また、語る際に、引用を用いたりして、知的に表現しようとしている(知性化)ようにも感じました。このことは、彼が自分の体験したことに対して、真摯に向き合うことができないということを表しているように受け止めました。それは言い換えれば、正面から向き合うにはあまりにも苦しすぎる体験だったのではなかっただろうかということが推測されるのであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー