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2020年4月27日 月曜日

4月27日:コロナ・ジェノサイド~コトバ(2)

4月27日(月):コロナ・ジェノサイド(35)~コトバ(2) 

 

(「日本ならできる」) 

 ホントに、どのお口がこんなこと言えるんでしょう。今が昭和40年代とかだったら僕もその言葉に賛同しただろう。でも、令和の今ではねえ。日本はずいぶん衰退しているのだ。 

 企業とか、各種メーカーとか、大学とか、さまざまなジャンルで世界ランキングなるものがある。かつては日本が上位に入っていたけれど、今ではほとんどないというありさまだ。平成の間に日本は衰退したのだ。 

 しかし、まあ、経済とかそういう話は展開しないでおこう。要は「日本なら」という言葉に含まれる「特別意識」が問題なのだ。 

 自分たちは特別だという意識は自己愛に基づく。自己愛には健全なものから病的なものまであり、自己愛そのものが問題というわけではない。 

 健全な自己愛は、僕の考えでは、他者を排斥しない、差別しないものである。病的な自己愛がそれをできるのである。 

 例えば、自己愛型の妄想、誇大妄想なんかのことだけれど、自分はキリストだとか、ナポレオンだとか、そういうことを言うわけだ。つまり、自分は特別に素晴らしい人間だという妄想内容になるわけだ。自分の内面とか心が空虚になり、貧しくなるほど、それを補償するかのように、過大な妄想が生まれることになる。マイナスを補うために過剰にプラスを供給しなければならなくなるわけだ。そして、自分が特別であるから、他者は排斥されることになる。 

 健全な自己愛ではそういうことが起きないと僕は考えている。例えば、僕はコンピューターとかインターネットのことに疎い。だから業者とか詳しい人に教えてもらう。大抵、僕より年下の若い人だ。でも、この若い人は僕よりもコンピューター歴が長いので、それに関しては僕より先輩なのだ。だから、師の言葉を仰ぐように、この人たちの説明を僕は拝聴する。それによって、僕の困難が乗り越えられ、自分に良い状態がもたらされるのだ。健全な自己愛とはそういうものだと思う。 

 日本はサーズとかマーズとかいうのを経験しなかった。中国や韓国、台湾なんかはそれを経験している。それに関してはその国々は日本よりも先輩であり、先進国なのだ。だから日本はそれらの国々を見習うのが健全な自己愛だと僕は思うわけだ。 

 ところが、中国や韓国、台湾でやっていることを日本はやろうとしない。それでいて日本だけは特別優れているなどという根拠希薄な信念にしがみついている。これを誇大妄想と評するのは間違っているだろうか。 

 

(「世界にない手厚い補償」) 

 首相によると、国民に補償している国は無いとのこと。多くの識者はそれに反対意見を出している。しかしながら、できるだけ善意に解釈しよう。補償ということと賠償ということが首相の中で混乱しているのではないかと僕には思われる。  

 確かに、ウイルスが国内に持ち込まれたということで国民に賠償した国はないと思う。賠償の意味でならそれは正しいだろう。 

 ところで、もしそうであるとしたら、どうして補償の観念に賠償の観念が混入してきたのかという疑問が生まれる。ここに踏み込むと話が明後日の方向に向かってしまうので、取り上げないことにしよう。簡潔に言えば、被害妄想に近いことが起きていると僕は思っている。 

 さて、日本は手厚い補償をしていると言う。それも世界的に見て類を見ないほどの手厚さであるということらしい。僕はこれも「賠償」の意味合いを帯びていると考えているが、それは先述までの話と被さるので、賠償という観念は脇へ置いておこう。 

 さて、この補償の手厚さということだけど、これも虚偽とは言えない。補償の制度が様々に整っていることは確かである。ただ現実的にそれが機能しているかである。 

 相手にプレゼントを贈りたいと欲すれば、相手にプレゼントが手渡って初めてそれが成就するものである。当たり前のことである。プレゼントを手渡すシステムをいくら構築しても、相手に手渡らない限りプレゼントしたとは言えないわけだ。 

 補償の制度をさまざまに設定した。しかし、補償が現実的に行き渡っていない限り、補償は成就されていないのである。あまりにも簡単な理屈である。 

 企業向けの融資とか助成金とか、子供の休校による親の補償とか、そういう制度はいろいろある。そして、多数の人が一度に役所に詰めかけてきたという事情もある。何の制度だったかな、11万人くらいの応募者があって、60人ほどしか補償が決定していない 

そうだ。11万人分の応募を処理するのは時間がかかるのは確かである。しかし、60人くらいしか話がまとまっていないというのは、なんともお粗末である。手続きが煩雑なのもあり、補償を求めながらも諦める人がけっこうあるらしい。 

 システムだけ作って、それで良しとされているように僕は感じている。現実にそのシステムが機能しているかどうかはチェックされていないのではないかと思う。そもそも補償がなかなかまとまらず、実現しないシステムなんて、そのシステムそのものの欠陥によるものじゃないかと思うのだが、そういう反省はなされないようである。 

 なんていうのか、宿題の準備をして、それで宿題が終わったように感じる子供に見られる心理である。 

 

(コンニャク問答) 

 特定の言葉ではないけれど、国会の答弁なんかを聞いていると、なんともコンニャク問答を展開しているようでとても聞いてられない。 

 人を悪く言うのは止めておこう。首相のコンニャク答弁は精神的にかなり追い詰められた人の言葉に似ているように僕は感じている。自己保身に懸命になっているといった批判も耳にしたことがあるけれど、保身に懸命になるということは、それだけ自身が崩壊の危険にさらされているということではないだろうか。だから、これからも言うことは一貫しないかもしれないし、コロコロと内容が変わるということも起こり得ると僕は思っている。 

 これは僕にも経験がある。このクライアントと面接していると自分が壊れそうだと感じることがある。そういうクライアントが過去に2,3名おられた。そういう時、僕は僕の中に一貫性を保つことが難しくなる。そのクライアントの反応を回避するために、その時々で言うことが変わることもある。彼らの反応に自分が耐えられないと感じてしまうためである。それで自分を守るために言葉を発することになるわけだけど、そういう言葉はその時々の状況に左右されるものである。クライアントのために何かを言っているようでいて、本心ではクライアントの望ましくない反応を引き出さないように言っているのだ。 

 そういう時の言葉というのは、客観的に見ると、一貫性が無く、場当たり的に見えるものだと思う。その時々で言い逃れをしているように見えてしまうものだと思う。当たり障りのないことを言って、その場を濁しているだけのように見えてしまうと思う。 

 ところが、こちらは必死なのである。自分が壊れないようにするために最大の防御をしているわけである。 

 首相の答弁を聞いていると、そういう状態にある僕の言葉を思い出すわけだ。だから首相の中でも同じような危機感が体験されているのかもしれないと、そう思う次第である。だからと言って、首相の考え方には相も変わらず賛同できないのであるが。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

投稿者 高槻カウンセリングセンター

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