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2019年4月6日 土曜日

4月6日:AC者の誤解

4月6日(土):AC者の誤解 

 

 ふう~、疲れた。今日はAC(アダルトチルドレン)系の人とも面接した。どうも僕の言っていることを彼らは誤解しているようである。この人個人には触れないけれど、もう一度、僕の見解を述べておこうかと思う。 

 

 AC者の中には自分の親を変えようとする人たちが含まれている。僕はそれを断念する方向に話を進める。当然、彼らはこれを気に入らない。 

 彼らは僕がそれを勧めることで親との分離を促進しようとしていると感じるようである。親との関係を絶てと言われているように聞こえるようだ。そうではなくて、親との関係の性質が変わることを勧めているわけである。 

 分離という観点に立てば、親を変えようとする試みの方がむしろ分離を促進するものであると僕は思う。親を変えるということは、ある意味では現実の親の「抹消」の試みと見ることができるからである。 

 この「抹消」の意味やニュアンスは個々のAC者によって異なると思う。しかし、その背後には攻撃的な感情が潜んでいるものと思う。そもそも、親を変えようとする試みがすでに親に対する攻撃感情で彩られていたりするものである。しばしば、攻撃的な形でその試みがなされるのである。この攻撃的な感情が問題なのである。 

 その感情はある程度の統制を受けなければならない。野放しにするわけにはいかないのである。というのは、その感情がエスカレートしていく可能性も高いからである。つまり、親はこちらの思うようには変わらないし、しかも、なかなか変わらない、それに加えて、親が変わっても自分の求めているものが得られないかもしれないし、親が変わっても自分自身に満足できないことは変わらないかもしれない。そういった経験をすればするほど、親に対する攻撃的な感情は高まるだろうと思う。 

 そして、この感情の行き着く先は、現実の親殺しである。僕はそう思う。AC者はそれをどう思うか分からないけど、親にとってもAC者自身にとっても、さらには周囲の人にとっても、不幸な結末である。僕はそう感じる。 

 そういう不幸な結末を回避しようとすることが悪いことだとは僕は思わない。攻撃的感情が大きくなりすぎて、統制不可になる以前に手を打って何が悪いというのだろうか。 

 

 さて、AC者が親を変えようと試みる時、その人には「悪い親」が見えているのである。そして、彼がこの試みを続ける限り、彼は「悪い親」と関係し続けることになる。「悪い親」と関わっている時、当人自身も「悪い自分」を経験しているのである。その関連を変えたいと僕は思うのである。自分自身も親も「悪い」という関係である。「悪い」何かで形成されている関係を別の、より適切で、お互いに安全なもので形成していくことを目指したいと思うのである。 

 

 AC者もさまざまである。いろんな人がそこに含まれていると思う。親を変えようとする人たちは、少なくとも、「いい親」経験を持っていると僕は仮定している。その経験があるから親を変えようという試みが生まれるのだと思う。 

 しかし、親を変える試みは、「いい親」経験を取り戻すことを却って妨げることになると僕は思う。従って、彼らが望んでいることからむしろ遠ざかる結果になってしまうようにも思うのだ。彼らに協力しようと思うから、その試みを断念した方がいいと僕は伝えるのである。 

 先にも述べたように、彼らはそれに不服である。むしろ親を変える試みに力を貸してほしいと彼らは望んでいたりする。僕がそれに応じないので、彼らは僕に対しても攻撃的感情を抱くようになる。あんまりいいことではないが、僕に敵意を向けるようになると、親に対する敵意がその分小さくなっていくこともある。一時的に僕が「悪役」というか「憎まれ役」を引き受けることで、親子が守られるという状況も生まれる。繰り返すけど、これはあまりいいことではないのであるが、それでも、親子並びに家庭の崩壊を多少とも防いでくれることもあるわけだ。 

 

 もう少し別の言葉で言い換えよう。親を変えようとする試みは心的防衛であると僕は思う。それを行動化するのは、それが防衛としての力が弱いからであると僕は思うのだ。従って、より適切で有益な防衛機制に置き換えていくことと、現実的自我を強化してその防衛にそれほど頼らなくてもいいようになっていくことの二つの方向性が生まれるわけである。 

 それが防衛機制としての機能を果たしているとすれば、僕の提言はそれを取り去ることのように体験されるだろうとは思う。無防備状態にさせられてしまうと彼らは感じてしまうと思う。そこだけを取り上げると、そのように見えてしまうのは致し方ないとも思うのであるが、この防衛はさほど当人を防衛していないのである。僕はそう思うのである。 

 ところで、それは何に対する防衛であるかということであるが、親を変えるということは、自分の来歴を変えるという行為に等しいと僕は思うので、要するに、受け入れがたい過去から現在までのあらゆる経験から自分を守りたいということなのではないかと思う。自分を受け入れられないのである。 

 それなら自分を受け入れることができるように援助するべきだということになるのだけど、親を変えようとする試みはその目標に反してしまうのである。なぜなら、本来その人の問題であるところのものが他の人の問題とすり替わってしまっているので、本来の問題は未着手のまま放置されることになるからである。それをし続ける限り、その人が自分自身の経験を受け入れることはそれだけ困難になると僕は考えているわけである。まあ、言っていることは分かってもらえても、僕のこういう表現が気に食わないという人もあるかもしれないけど、もうそこまで気にしないことにしよう。 

 

 もう一つだけ付け加えておくと、親を断念するという「断念」に関してである。これは意図的、意識的、あるいは意志的な行為である。親との関係において自身の意志を働かせることになるわけである。その関係において、あるいはその関係において生じる感情に流されることを防ぐためでもある。何か感情が刺激され、喚起され、衝動的に親を変えようとする試みが発動されるとすれば、その人は自らの意志を喪失しているのである。その目的(親を変えること)が正しかろうと間違っていようと関係がないのである。意志の回復もそこで目指されているのである。 

 

 まだまだ綴るべきことはあるけど、書くのに疲れたのでここまでにしておこう。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

投稿者 高槻カウンセリングセンター

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