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2021年6月7日 月曜日

6月7日:キネマ館~『英国王のスピーチ』

6月7日(月):キネマ館~『英国王のスピーチ』 

 

 この映画、前々から見よう見ようと思っていながら、尚且つ、見る機会はいくらでもあったにもかかわらず、見ることがなかった。今、「いつかしよう」という言葉を僕の辞書から追い出している最中なので、今回、見ることにした。鑑賞して、「いつか見よう」にケリをつけてしまおうと思ったわけだ。 

 

 ジョージ5世の二人の息子、その次男であるヨーク公は子供のころから吃音で悩んでいた。彼はさまざまな治療者のもとで吃音治療に取り組んできたが、どの治療者もそれに成功しなかった。今、ライオネル医師の治療を受け始めているものの、この吃音のために、彼は皇位を継承したくないのである。父の死後、一旦は兄が継承するものの、皇室に相応しくない女性と結婚したこともあり、彼は皇位を弟に譲ることになった。ヨーク公は苦しい決断をすることになる。紆余曲折を経て、ヨーク公は皇位を継承し、ジョージ6世となる。そして、ライオネルと二人三脚でスピーチに臨む。 

 ものすごくザツな記述だけれど、それがおおまかな筋である。 

 

 ライオネルという人の治療が独特だ。吃音の治療だけれど、体全体から取り組む。口の筋肉の動かし方、話す時の姿勢など、全身で教え込む感じだ。 

 そして、吃らない場面を拡張するような働きかけをする。短期療法家のいうところの「例外」を広げていくようなところがある。なかなかユニークな治療を試みる。 

 僕が感心するのは、ライオネルがヨーク公に「対等の立場」を求めるところだ。僕の見るところでは、これは治療関係にパラタクシス的な歪みを持ち込ませないようにするものだと思っている。 

 パラタクシス的歪みとは、こういうことである。AとBの二人の人間が対峙する時、AがBと対面し、BがAと対面できている時には、そのような歪みは生じない。しかし、A 

がBと対面する時、Bと対面していると同時にXとも対面しているとなれば、そこに歪みが生じる。Bの方でも、Aと対面していると同時にYと対面しているとなれば双方で歪みが生じていることになる。これは精神分析でいうところの転移と逆転移ということにもなるのだけれど、人間が社会的に複数の役割を有している以上、そのような歪みは生じ得ることになる。この歪みが大きいほど、苦しい人間関係になってしまうわけだ。 

 ライオネルにとって、ヨーク公は患者であり、一人の人間であり、皇族の人間である。ライオネルにとってみれば、彼はA(X)であり、A(Y)であり、A(Z)であり得ることになるのだが、その複数性を消去しようとしているようである。ヨーク公の方にも同じことをライオネルは求めていることになる。 

 パラタクシス的な歪みが除去されているので、ヨーク公にとってはライオネルとの関係は特別の意味を持つことになると思う。言い換えれば、ヨーク公は他の人との間では経験することのできない関係をライオネルとの間では経験しているということになると思う。だから、時に反発しながらでも、ヨーク公はライオネルのもとに戻ってくるのだと思う。 

 しかし、物語の途中で、ライオネルはヨーク公に皇位を継承しなさいと勧める。これは対等な関係の放棄ではないかと思われるかもしれない。彼が皇位継承したら治療関係にパラタクシス的な歪みが持ち込まれることになりはしないかと心配になる。 

 ところが、ここがよくできているなと僕は感心するのである。そうはならないのである。二人の人間にパラタクシス的な歪みが生じる場合、双方に共通項が生まれればその歪みは軽減できるのである。いい意味でも悪い意味でも、いわば、似た者同士になることによって、そうした歪みが解消されていくわけである。 

 ライオネルは本当は役者志望だった。今でも役者活動をしている。彼が治療者になったのは、人々がその彼を、治療者としての彼を求めたからである。彼は人が求めるものに応じて行ったのである。役者になりたいという思いも捨てきれないけれど、彼は要請を受け入れ、要請に従った人間である。 

 ヨーク公もそのような人間になっていくのである。彼はいくら自分が皇位継承を拒んでも、人々が彼に王となることを求めているのである。彼はその要請に応じていく。かつてライオネルがそうしたように、ヨーク公も求められるものに自分がなっていくことを決意したのである。これによって、二人の間のパラタクシス的な歪みが解消されることになるわけだ。 

 ヨーク公は、人々が求める自分に、もっと言い換えれば時代とか人生とか運命とかが彼に期待し、要請し、突きつけてくる人間に自らなっていくのである。彼はすべてを受け入れるのだ。その時、彼は一人の人間になるのである。もはや彼は兄に比較される人間でなく、兄の陰に生きる人間でもなくなっていくのである。 

 彼の演説は人々の心に届く。用意された原稿があったとしても、人々はその演説に耳を傾け、感動をともにする。彼が吃音を克服しているから感動するのではないのだ。彼が一人に人間になって、一人の人間としてメッセージを伝えているから人民の心に届くのだ。スピーチの技術が向上しているのではなく、彼の実存がそれまでとは違っているのである。そこにこの映画の観客も感動を覚えるのではないかと僕は思っている。 

 

 実にいい映画だった。観て良かった。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

投稿者 高槻カウンセリングセンター

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