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2021年7月2日 金曜日

7月2日:文献の中の人たち~喜楽家園六といろ平

7月2日(金):文献の中の人たち~喜楽家園六といろ平 

 前回に続いて、今回もホーカンの世界に生きた人たちを取り上げる。出典は同じく「旅と推理小説」より。 

 師匠も持たずにホーカンの世界に飛び込み、獅子舞芸で人気を博した喜楽家茶ら平も、やがて弟子を抱える身分になる。師匠が師匠なら、弟子も弟子だ。ホネのある師匠にはホネのある弟子が育つものだ。 

 弟子の一人に喜楽家園六という人がいた。器用な人だったらしく、三味線も笛もよくこなしたそうで、茶ら平も獅子舞芸を披露する時には園六を助手にしていた。 

 ただ、その場合、園六はホーカンの助太刀、助手といった立場であり、直接芸を披露することはなかった。裏方的な存在だった。 

 園六は「師匠たちはお座敷でお客さんの話し相手をする。俺なんか誰も話しかけてくれないよ。それでも芸が好きで入ったのだから仕方がない」とこぼしていたそうである。 

 戦後、ホーカンの仕事が激減したため、園六は肉体労働に従事することになる。昼間は肉体労働者、夜はお座敷があるとホーカン助手として働く。そんな生活が続いたようだったが、不幸にも、交通事故で他界する。 

 園六の通夜、肉体労働者の仲間が言う。「ロクさんがいなくなって寂しい。あの人は我々を楽しませてくれた芸人だった。生活の鬱憤を笑いに変えた、肉体労働者の寄席芸人だった」 

 お座敷で芸を披露することはなかったかもしれないが、園六根っからの芸人だったのだろう。肉体労働の世界に身を置いても、芸人であることを止めなかったのだろう。 

 また、弟子の中に喜楽家いろ平という人がいた。この人は一人前のホーカンになるまでに32年を要した。60歳を過ぎて、ようやく「名びろめ式」を持つことができたという人である。 

 師匠はいろ平をなかなか一人前のホーカンとしてデビューさせなかった。どうしてなのかは僕は知らないけど、一人前になるにはまだ早いと師匠は言っていたそうだ(手放したくなかったのだろうと僕は思っている)。そんな時、一人の芸者が「もうそろそろ一人前にデビューさせてやんなよ」と師匠に口ぞえした。それでようやくいろ平のデビューとなった次第である。 

 戦中、茶ら平一門は慰問団を結成する。ある時、当時の首相だった東条英機から慰問の依頼を受けた一門は、首相官邸に招かれることとなった。もちろん、この中にはいろ平の姿もあった。 

 首相官邸にて、彼らは待たされることになる。どんな様子であったかは分からないけど、戦時中のこともあって、周囲には軍服姿の兵隊たちが囲んでいたのではないかと思う。さぞ、物々しい雰囲気だったのではないかと想像する。そんな中で、一門は待機しているのであるが、なかなか呼ばれない。約束の時間が二時間過ぎても何の音沙汰もない。 

 痺れを切らしたのはいろ平だった。ついにその怒りが爆発した。「べらんめえ、東条がなんだ。総理大臣だかゾウリ大臣だか知らねえが、こっちは商売。税金払ってやってるんだ。こんなに待たせるなんてバカにすんない」といきまき、タンカを切ったのだ。 

これには師匠も仲間も驚愕した。首相官邸でそんなタンカを切ったら、それこそ重罪ものである。当時の軍隊国家だから、現在からは想像もつかないほどの重い刑が課せられるかもしれない。みんな、いきり立ついろ平をなだめようとする。 

その瞬間である。軍服姿の男が入ってきて、 

「やあ、すまん。会議がのびてしまって。いろ平さん、あんたの言うことはもっともです。謝ります。お気を悪くしないで頼みます」 

 と頭を下げて詫びる。 

 びっくりしたのはいろ平の方だった。そこで現れた男、いろ平に頭を下げたその人物はなんと東条英機本人だったからである。 

 首相官邸でタンカを切ったいろ平もすごいが、一介のホーカンに頭を下げる東条英機首相も立派である。 

 戦前から戦中・戦後にかけて、日本はあまりいい時代ではなかったかもしれないけれど、この時代の日本人に僕は憧れる。 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

投稿者 高槻カウンセリングセンター