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2020年8月8日 土曜日

8月8日:共感なんて役に立たん

8月8日(日):共感なんて役に立たん 

 

 僕は共感しないカウンセラーとして見られることが多いようだ。実際、それを目指している。共感なんて何の役にも立たないと僕は思っている。 

 僕のスーパーバイザーでもあったI先生との面接で僕はそれを学んだ。僕が自分の辛かった体験を話している時、ふとI先生を見ると、I先生が涙ぐんでおられたのだ。泣いておられたのだ。I先生はそこまで僕の話に共感してくれていたわけだ。 

 でも、僕が望んでいたのは、一緒に泣いてくれる人ではなかった。僕に何が起きているのかを明確にしていく手助けを僕は求めていた。共感されることなんか僕には必要ではなかった。 

 そもそも、クライアントに共感しなければいけないというのは日本のカウンセラーの強迫観念だと僕は思っている。クライアントに共感することはカウンセリングではないのだ。 

 ロジャースが言っているのは「共感的理解」ということなのだ。理解することなのだ。カウンセラーが求めらているのはクライアントを理解することである。その理解が共感的であればいいのであって、共感「する」ことを述べているのではないのである。 

 理解するとはどういうことか、さまざまに定義できるだろうと思う。僕はクライアントの体験したこと並びにクライアントの中で起きていることを理解することがもっとも重要であると考えている。その体験のプロセスを理解することなのだと思っている。 

 その理解が共感的であればいいということだ。では共感的とはどういうことであるか。これは非共感的な理解を考えてみれば分かる。非共感的理解とは、例えば、理論に当てはめるだけの理解などである。クライアント個人を抜きにした理解である。僕はそんなふうに思う。 

 クライアント個人、その性格であれ、その状態であれ、あるいはその置かれている状況であれ、そのクライアントを中心にした理解であれば、自ずと共感的になりうると僕は考えている。理論中心の理解ではいけないということだ。クライアントを中心にした理解をしていくこと、その理解に少し客観的な根拠が欲しい場合に理論が求められるのであって、その逆であってはいけないのだ。 

 そして、共感してはいけないものもあると僕は考えている。共感されるとその感情の正当性が保証されたように感じることもある。その感情的正当性で他のすべての言動を正当化してしまうような人に対しては僕は慎重にならざるを得ない。下手に共感しない方がいいこともあるわけだ。 

 また、共感するとすれば、今ここでの体験の共感に限る。クライアントの過去経験の共感ではなく、今ここでのカウンセリング場面での共感だ。I先生がしたのは前者の共感なのだ。僕の過去経験に対する共感であって、今ここにおける僕の体験の共感ではないのだ。 

 そして、もっとも共感的な応答は共感要素が表に出ないものである。クライアントが辛い経験を話しているとしよう。カウンセラーが「それは辛かったね」などと言うと共感したことになるだろうか。しかし、「辛かった」というのはカウンセラー側の見解であり、クライアントはそのように体験していないかもしれない。そうなると、カウンセラーはクライアントの体験を一方的に決めつけたことになる。やはりよろしくない。それは違うと訂正するクライアントならまだしも、それは違うんだけどなあと心で思いながら訂正できないクライアントもおられるだろうと思う。そうなるとクライアントの体験していることと、クライアントが体験しているであろうとカウンセラーが共感的に想像していることとの間にはズレが生じることになり、以後、このズレが訂正されないまま関係が維持していくことになる。 

 もっとも共感的な言いまわしは共感を伝えないのである。クライアントの話している内容が辛いことだなと感じられたら、「辛かったですね」と言うのではなく、「あなたの話を聞いていて私は辛くなってきました」と言うことである。クライアントの体験が辛いかどうかは分からないけれど、私が辛いと感じましたと伝えることである。これがもっとも共感的な応答であると僕は考える。 

 今の応答にもう一つ付け加えよう、「あなたの話を聞いていて私は辛くなってきました。あなたはどう?」と訊くのである。そうするとクライアントは自分も辛いことでしたと答えるかもしれないし、これは人が聞くと辛いって感じる経験なんだということをクライアントは発見するかもしれない。 

 しかし、本当の共感はもはや文章にはならないものだと僕は思う。「うわぁ~」とか、「ええっ!」とか、「あら~」とか「まあ~」とか、そういう音声で伝えられるものだと思う。文章というか言葉になる場合でも、「それはひどい」とか「なんてことだ」とか、そんな言葉になると思う。あるいは顔の表情とかで表されるかもしれない。だから理想的な共感とは、クライアントが共感されたことに気づかないうちに共感されたように体験しているというものである。 

 I先生には申し訳ないけれど、代わりに泣いてくれたりすることは、本当は共感ではないのだ。一緒に泣いたり怒ったりとかするのは共感していることにはならないのだ。僕はそれを「同調」と呼びたい。 

 この話、延々と続けてしまいそうだ。 

 最後に簡潔に理解ということを述べておこう。僕はクライアントその人を理解したいと思う。クライアントその人を理解する手がかりはクライアントの話すことである。従ってクライアントの話を理解するというところから始まる。 

 クライアントの話を理解するとは、要するに、クライアントの話が「分かる」ということだ。クライアントの話が「分かる」とは、「分からない」ところが見えているということである。分かれば分かるほど、分からない部分がよく見えるのだ。 

 その分からない部分は、クライアントに尋ねても恐らく分からないと答える。だから僕は推測していく。この人だったらそこでこういう体験をしているのではないだろうか(ここが共感的と呼ばれる部分であると僕は考えている)とか、この人だったらこういうふうに受け取るのではないだろうかとか、そういうことを考えていく。そうして仮説を組み立てていくわけであるが、必ず、クライアントの体験していることは筋が通っているはずなのである。その筋を辿ることができるまで考えていく。 

 もっとも、それを考えていく際には、必要な情報が足りていないかもしれないし、まだまだ聞けていないものがあるという可能性を考慮しておかないといけない。いつでも考えを修正する準備が僕には求められることになる。 

 

 この話、まだまだ続く。でも、いい加減疲れてきたので、今日はここまでにしよう。また機会があればこの続きを書くかもしれないし、書かないかもしれない。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

投稿者 高槻カウンセリングセンター

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